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区・行政・男女平等

板橋区のおいたち

公開日:平成20年4月1日
最終更新日:平成20年7月9日

 はじめに

 50万都市板橋区は、長い歴史と伝統に支えられ今日にいたっています。

 そのこん跡は、今でも街の中にひっそりと残っており、これらの多くが史跡や文化財になっています。

 区内に残る文化財などから、区のおいたちを訪ねてみましょう。


 原始から古代


 武蔵野台地北東部と荒川低地をあわせ持つ板橋区は、豊かな自然環境に恵まれ、古来から多くの人々が生活し、文化を育んできました。区内で最も古い、人々が生活したこん跡は、約3万年前のもので、小茂根・西台・成増地区で見つかっています。この時代は旧石器時代と呼ばれ、まだ土器を持たず、小集団で狩りをしながら移動を繰り返していました。

 約1万年前からは、縄文時代となり、集団で「ムラ」を営み始め、今の荒川沿いの台地上の小豆沢・若木・四葉・赤塚地区には貝塚も残され、弥生時代になると稲作が始まり、もみの跡がついている土器も出土しています。区内では弥生時代後半から古墳時代前半の遺跡が最も多く、その理由解明が注目されています。古墳は、マウンドが残っているものはほとんどありませんが、志村・西台・四葉・赤塚、成増地区で円墳が築かれていた記録やこん跡が確認され、また「ムラ」の跡も古代まで確認されています。しかし、板橋の地にどのくらいの人たちがどのような生活をしていたかなどは、これからの調査に期待するところが多く、遺跡が調査されずに破壊されることがないようにしたいものです。


 赤塚城と志村城から


 平安時代までの遺跡が多く発見されるのに比べ、それ以後の鎌倉・室町時代の板橋を知る遺跡は極端に少なくなります。しかし、古文書によれば、この時代石神井川流域を中心にまず豊島氏一族が区内を支配しており、室町時代中期になると、武蔵千葉氏が赤塚城・志村城を拠点に勢力を伸ばしています。

 また「小田原衆所領役帳」という戦国大名の後北条氏に関わる古文書には、赤塚・志村・板橋・大谷口・毛呂(茂呂)などの名が見え、板碑(中世の供養塔)が多数残されていることともに、中世の活発な動きがわかります。


 板橋宿と上板橋宿


 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利をおさめた徳川家康は幕府を開き、江戸を中心とした交通網の整備に取りかかりました。

 五街道の一つ中山道の第一番目の宿場が板橋宿で、脇街道としての川越街道の宿場が上板橋宿(弥生町)です。宿場は、物資の中継、宿泊などが主な機能ですが、各地の文化が集まり、また、物資を消費するという都市としての性格も持ち合わせています。

木曾街道板橋之駅

 このように板橋の東南部は、宿場を中心とした都市的な場として繁栄してきました。

 一方、志村・徳丸・赤塚地区では、江戸へ積み出す大根などの野菜栽培が盛んになり、近郊農村として発展していきました。


 明治から昭和へ


 維新の混乱期が一段落した明治11年、北豊島郡が誕生します。板橋宿には郡役所が置かれ、行政の中心になりました。しかし、明治16年に上野・熊谷間に鉄道が開通した際、板橋宿を通らなかったことや、翌17年に大火があり板橋宿の大半が焼失したことより、さしもの板橋宿も往年のにぎわいが見られなくなりました。

 明治18年、品川・赤羽間に山手線が開通し、板橋駅が開業しました。

 さらに、大正3年、私鉄の先べんをきった東上鉄道(東上線の前身)が開通し、上板橋、赤塚方面が開発される基となりました。

 昭和7年10月には、東京市の拡張にともない板橋地方も東京市に編入され、板橋区が誕生しました。

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 平安地蔵


 戦時中、板橋区民も大変苦労しました。夫や父を戦場に送り、銃後では女性たちが勤労奉仕にかり出されました。

 昭和19年、日本の敗色が濃くなってくると、毎日のように東京をはじめとする大都市を中心にB29爆撃機による空襲がありました。子どもたちは親元を離れ、集団疎開で一家がバラバラになり、正常な区民生活を送ることはできませんでした。板橋区の空襲は、正確な数字は定かではありませんが、十数回あったといわれています。なかでも、昭和20年4月13日には区役所・養育院(現在の東京都老人医療センター)・板橋駅など主要建物が焼失して200人を超える方が亡くなり、また同年6月10日の現在の南常盤台二丁目を中心とした爆弾攻撃では、300人近い方が亡くなりました(これは板橋区内の空襲では最も多い死者数です)。

 その後、地元の有志が死者の供養と平和を祈願し、平安地蔵を建立しました。


 戦後からのあゆみ


 昭和22年4月、地方制度の改革により特別区(現在の東京23区)の一つになり、同年8月、区民の利便を考慮し南西部を練馬区として分離しました。

 明治期より軍需中心であった板橋区の工業は、終戦を境に精密機械を中心とする平和産業に変容、また昭和30年代まで東京の穀倉地帯と称された「徳丸たんぼ」は、昭和41年12月から日本住宅公団(現在の独立行政法人都市再生機構)の手により高層住宅が相次いで建設され、一躍都内でも有数の住宅街になりました。

 高島平団地の出現は、板橋区が都市化へ向けて出発する第一歩でもあり、交通機関も従来の東武東上線に加え、昭和43年12月、志村(現在の高島平)・巣鴨間に開通した地下鉄は、その後、西高島平・三田間に延長され都営三田線となり、平成12年9月には三田から目黒へ延伸し、東急目黒線に相互乗り入れしています。

 また、昭和58年6月には有楽町線が営団成増(現在の地下鉄成増)まで延伸し、昭和62年8月に和光市で東上線と相互乗り入れしたほか、昭和60年10月には国鉄(現在のJR東日本)埼京線浮間舟渡駅が開業しました。

 一方、道路では首都高速5号線が南北に走り、平成14年には中央環状王子線が開通するなど、まさに首都東京の北端を担う都市景観が出現しています。

 しかし、このような都市化の波により、自然環境や生活環境の悪化が問題になるなど、新たな都市問題が出てきています。

昭和38年の板橋二丁目昭和38年の板橋二丁目

平成19年の板橋二丁目平成19年の板橋二丁目


 持続的発展にむけて


 区では、平成7年11月に策定した板橋区基本構想のもと、将来像である「活力ある緑と文化のまち“板橋”」の実現をめざして、平成8年に基本計画「いたばし2005計画」を策定し、施策を推進してきました。その間、平成12年4月の都区制度改革により清掃事業が区へ移管され、区は地方自治法上も基礎的自治体となり、国や都からの権限委譲である地方分権も進んできています。今後はさらに加速する高齢化に対し、生涯を通じた社会参加と、次代を担う子どもの育成が大きな課題となっています。

 また、地球規模による環境保全の視点から暮らしを見直し、よりよい生活環境を創造して未来に引き継がなければなりなせん。

 このような課題に対応するために、平成17年10月19日に新たな基本構想を策定し、将来像を「いきいき暮らす緑と文化のまち“板橋”」と定めました。この基本構想に沿って、平成18年度からの新たな板橋区基本計画・実施計画の策定作業を現在進めています。

 「情報公開」「行政の客観的評価」「区民参加」を区政の経営理念として、区民や団体、事業者がそれぞれの立場で役割を担いながら、地域の課題解決に取り組む協働のまちづくりを進め、暮らしの充実が実感でき、持続的に発展する板橋区をめざしていきます。


 動画でもご紹介します


 放映時間は約3分、配信速度は 300Kbps です。

 なお、ご覧いただくパソコンには Windows Media Player 等の動画を再生するソフトウェアがインストールされている必要があります。


 ここをクリックしてください。再生が始まります。

 (この動画に音楽や音声はありません。)



 掲載写真

このページに掲載している写真の出典は、板橋区公文書館です。

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作成部署

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