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公開日:平成23年9月1日
最終更新日:平成23年9月1日

こうぶんしょ館電子展示室67号    

「高島平団地ができたころ」

-日本屈指の巨大団地の誕生-

はじめに

 板橋区を代表する団地といえば、おそらくほとんどの方が「高島平団地」の名をあげるのではないでしょうか。日本住宅公団(現・UR都市機構)が開発し、昭和47年(1972)から入居が始まった高島平団地には、完成から約40年がたとうとしている現在も、多くの区民の方々が生活しています。

 今回の電子展示室では、公文書館で所蔵している公文書や行政刊行物、写真などの資料を用いて、高島平団地ができあがる前後の時期を中心に、いくつかの出来事について取り上げてみたい思います。

高島平団地ができるまで

・広大な水田地帯

 高島平団地ができるまで、この地域には広大な水田地帯「赤塚・徳丸たんぼ」が広がっていました。この辺り一帯は、自然環境を保護することによって住民の健康を守るとともに、農地を保全して、野菜類の自給を行うため、昭和23年(1948)に「緑地地域」に指定されていました。

 しかし、戦後の復興が進むとともに、都心部への人口流入はますます増加していき、このままではスプロール化(市街地の無秩序な広がり)をまぬがれることは難しくなってきていました。

 その一方で、都心部の宅地不足を解決するため、緑地地域を解除してほしいと要望する声も高まってきました。その背景には、新河岸川沿岸に工場群が進出してきたことによる地下水の不足や汚水の流出、地盤沈下など、農業を続けていくには困難な状況に悩まされていたという事情もありました。

 こうしたなか、東京都は昭和33年(1958)、地権者が組合を組織して土地区画整理事業を行うのであれば緑地地域を解除する方針を決定します。板橋区も翌年に区画整理助成班を設置し、区画整理組合の結成を積極的に呼びかけていきます。

 「赤塚・徳丸たんぼ」の住民たちが「旧赤塚水田地帯開発協力会」を結成し、緑地地域の解除を求める運動をおこしたのは、昭和37年(1962)5月のことでした。広大な水田地帯の開発を地元の力だけで行うことは難しいため、協力会では8月に「住宅交渉委員会」を結成し、日本住宅公団と協力して区画整理を行うこととなりました。

 そして昭和38年(1963)12月、公団は36万坪の土地を地主より購入し、高島平団地の建設が確定します。なお売り渡し価格は1坪あたり2万1千円でした。

・つぎつぎと完成する高層建築

 昭和40年(1965)6月に施行区域が決定されると、具体的な建設計画がたてられていきます。そして翌年の12月、5階建程度の中層団地を中心に4,890戸を用意するという事業計画が認可され、本格的な建設が始まります。

 しかし事業計画は、建設の過程で大きく変更されます。都心部の住宅不足が悪化する中、昭和44年(1969)7月には、14階建を中心とする高層団地、計10,170戸を用意するという計画に変更され、当初の倍以上の規模になったのです。戸数を増やすために、3DKなどの大型住宅を減らし、2DKや1DKを増やすといった手法もとられました。

徳丸田んぼ 三園小より(昭和42年)

徳丸田んぼ 三園小より(昭和42年)
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高島平団地造成中(昭和45年)

高島平団地造成中(昭和45年)
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高島平団地遠望(昭和47年)

高島平団地遠望(昭和47年)
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高島平団地まつりの光景(昭和50年)

高島平団地まつりの光景(昭和50年)
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団地の完成と住民の急増

 昭和47年(1972)1月23日、高島平駅近くの14階建ての2棟から入居がはじまります。その後も入居は断続的に進み、翌年3月の第五次入居で完了します。この約1年の間におよそ1万世帯、2万9千人が入居しました。

 これだけの人が一気に同じところで生活を始めたのですから、団地では様々な問題がもちあがります。なかでもすぐに大きな問題になったのが、保育園の不足でした。

 高島平団地の賃料は他の団地の約2倍の高さであったことから、入居者の中心は、ある程度の収入がある比較的年齢の高い世帯になるだろうと予測していたので、団地が完成したとき、保育園は3つしかありませんでした。

 しかし実際には、比較的若い世代の家族、特に第1次ベビーブーマーである「団塊の世代」が入居者の中心でした。赤ちゃんの泣き声等の理由で民間アパートの入居を断られたことから、公団の住宅である高島平に流れてきたのです。

 しかも、高い家賃を支払うため、多くの世帯では共働きを余儀なくされました。そこで保育園の入園希望が殺到したのです。

 この問題に対して、板橋区も迅速に対処します。入居の始まった昭和47年の12月には、保育園の1つにベビールームを併設し、翌48年には新たに3つの保育園がつくられました。その後も、どんどん産まれていく子どもたちをあずかるために、保育園が次々とつくられていくことになります。 

 なお、小学校についても予定通り建設を進めていきましたが、増え続ける子どもたちに対処するため、昭和54年(1979)には、当初予定になかった高島平第七小学校が開校しています。

おわりに

 今回は団地が完成する前後の時期だけを振り返ってきましたが、それ以降も高島平団地ではいろいろな問題が生じています。そしてもちろん、「団地まつり」をはじめとするさまざまな住民どうしの交流も進められていきました。

 板橋区公文書館には、高島平団地をはじめ、皆さんのお住まいの地域において区が行ってきたさまざまな施策に関する公文書や刊行物が多く保管されています。ぜひ一度、公文書館に足をお運びください。住みなれた地域の意外な側面が見えてくるかも知れませんよ。スタッフ一同、心よりお待ち申し上げております。

※ 今回の電子展示室は、本年度体験ツアーの内容の一部を、同講師の熊本博之氏のご助言をもとに、再度まとめなおしたものです。

 熊本氏には、この場をお借りしてお礼申し上げます。

【参考資料】

『板橋区の土地区画整理事業』(板橋区土木部計画課、昭和46年3月)

『ひらけゆく高島平』(板橋区企画室、昭和46年11月)

『高島平の概要』(板橋区企画室、昭和47年5月)

『板橋 土地区画整理事業』(日本住宅公団、昭和47年5月)

『高島平地区の開発に関する資料集』(板橋区行政情報センター、昭和63年11月)

『高島平-その自然・歴史・人-』(板橋区立郷土資料館、平成10年10月)

『高島平団地の未来~少子高齢化のゆくえ~』(大東文化大学法学部政治学科 中村ゼミナール、平成11年)

『板橋区史 通史編 下巻』(板橋区史編さん調査会編、平成11年)

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