本文へ

未来をはぐくむ
緑と文化のかがやくまち
‟板橋”

文字サイズ変更

画面の色

トップページ >  文化・観光・施設・公園 >  文化財 >  第12回櫻井賞 清涼寺式を中心とする特定の模刻像の流行(1)

公開日:平成26年5月28日
最終更新日:平成26年5月28日

清涼寺本尊木造釈迦如来立像

清涼寺本尊木造釈迦如来立像

第12回櫻井徳太郎賞 高校生の部 最優秀賞受賞作

清涼寺式を中心とする特定の模刻像の流行

武蔵高等学校1年 馬場 俊行

 

1、序論

 

(1)研究の動機・目的

 清涼寺式は、かつて日本各地で流行した仏像の一様式であり、その名の通り京都清涼寺の釈迦如来像を模刻することで全国に広まった。このような現象は特異であり、極めて興味深い。そこで、清涼寺式釈迦如来像流行の原因を明らかにすることを研究のテーマとした。その延長線上として、善光寺式阿弥陀三尊像など、他の様式との比較などから、仏像における「様式」についても考察していきたい。 

 

(2)研究の意義

 清涼寺式は、全国に広まった特異な様式として美術史的に大変興味深い。また、同様式は鎌倉期には真言律宗の弘通に利用され多くの高僧が帰依するなど、当時の仏教界と深く結び付いた。したがって、宗教史的にも極めて重要なテーマとなりうる。

 

(3)研究動向の概説

 清涼寺式の研究は大正10年(1921)の「開元寺像の源流考」を一応の始まりと見ることができる。この論文は清涼寺本尊像の図像的起源について考察するものであり、日本国内における流行に深く触れたものではなかった。その後は昭和4年(1929)の「鎌倉時代に於ける嵯峨釈迦像模刻の流行と釈迦念仏」(戸部隆吉)などの研究があり、清涼寺式の流行に貞慶・明恵などの高僧が関わっていたことが指摘された。また、鎌倉期の叡尊・忍性による律宗布教が両様式流行に寄与したことが指摘され、叡尊らの活動こそ流行の主な原因であると目された。その一方で田中重久氏は「清涼寺釈迦檀像様説」において、叡尊・忍性だけでなく他の要素も流行の原因として考慮する必要があると指摘した。やがて清涼寺式研究は、新作例の報告や胎内文書の解読に終始するようになり停滞気味であったが、昭和33年(1958)の「清涼寺釈迦像変遷考」(毛利久)に至って、清涼寺式の作風が年代ごとに変化することが指摘された。また、猪川和子氏は「東国の清涼寺式釈迦如来像」において実際の作例の比較を元に、清涼寺式をいくつかのパターンに分類した。以上が今日に至るまでの研究動向であり、仏僧との関わりや作風の比較から、流行の原因を模索してきたと言える。また、清涼寺式と、同じく全国的に流行した仏像の様式である善光寺式とを並べて記述する研究者もいたが、簡様式の関わりに踏み込んで考察した論文はほとんど無く、いまだ多くの課題を残しているように感じられる。本論文では以上を踏まえて、清涼寺式流行についてより多面的に、例えば仏師の動向や善光寺式との共通点・相違点も踏まえつつ考えていこうと思う。

 

(4)清涼寺式の特徴

 清涼寺式(嵯峨式とも)とは、京都市右京区清涼寺本尊木造釈迦如来立像(右上写真)に倣い、主に模刻によって全国に広がった様式である。清涼寺式はどれも清涼寺本尊像と同様の特徴を備えている。すなわち、[1]縄を編んだような頭髪、[2]身体の正面でU宇状に同心円を描く衣文(衣のしわ)、[3]両肩を衣が覆う(通肩)などである。

 

(5)清涼寺本尊像の由来

 清涼寺本尊像には、次のような伝説がある。釈迦が在世の折、忉利天という世界に暮らす亡き母に法を説くため、一時この世を離れることになった。釈迦に深く帰依していた優王は大変寂しく思い、釈迦の姿を写し取って、代わりの像を造らせたという。この像はやがてインドから中国に伝わり、東大寺の学僧奝然(938~1016)が模刻させた像が永延元年(987)に宋から請来され、清涼寺に安置されるに至った。以上の伝説から清涼寺本尊像は「三国伝来の釈迦」と呼ばれ、生きた仏(生身仏)として厚い信仰を受けた。

 

2、本論

 

(1)叡尊以前の清涼寺式

 これまでの諸研究によって13世紀に活躍した真言律宗の開祖叡尊(1201~1290)が清涼寺式の流行に深く関係していることが指摘されている。もっとも清涼寺式の流行原因として、叡尊以外の要素も考慮すべきであることが田中重久氏他一部の研究者により主張されている。そのため、本論文では叡尊・忍性(叡尊の弟子、1217~1303)の活動だけに目を向けるのではなく、より多面的に清涼寺式について考えようと思う。

 [1]貞慶の釈迦念仏との関連

 清涼寺本尊像が日本に渡ると朝野は熱烈にこれを歓迎したが、平安時代には模刻の動きが余り見られなかった。古い例としては京都府宇治市の三室戸寺像(承徳2年・1098)が知られている。そして平安末期に至り、清涼寺式を考える上で大変重要な人物が現れる。南都を中心に活躍した僧、貞慶(1155~1213)である。彼と清涼寺式との関わりについては、戸部隆吉氏の「鎌倉時代に於ける嵯峨釈迦像模刻の流行と釈迦念仏」中で指摘されている。彼の事績を以下まとめる。

このページのトップへ戻る

 貞慶は、旧仏教改革派の中心として、由緒ある大寺院の復興に尽力するとともに、法然らの新仏教と激しく対立した。貞慶の思想の根幹は、戒律(僧の守るべき規律)を重んじて、仏教を釈迦の時代の姿に戻すことであった。そのため貞慶が釈迦生き写しの霊像である清涼寺像を厚く信仰したのは当然のことであった。こうした思想を背景として、貞慶は建仁2年(1202)奈良唐招提寺において釈迦念仏会(釈迦の恩徳を称える法会)を創始した。貞慶は念仏会本尊として清涼寺式釈迦如来像を造立したと考えられている。以上述べた様に、貞慶と釈迦念仏、清涼寺式が密接に結び付いていたことは、次代の清涼寺式本格流行の土壌形成として極めて重要であったと思う。

 [2]貞慶周辺の高僧による信仰

 貞慶に関連してもう一つ注目すべきなのは、貞慶と親交のあった僧に共通して清涼寺式への信仰が見られることである。これまで指摘されている僧としては、明恵(1173~1232)が挙げられる。明恵は華厳宗興隆を志し、浄土諸宗の新仏教に対抗して戒律を重んじ、仏教を釈迦の精神に戻すことを目的とした。明恵はこのように、新仏教への対抗的スタンスを貞慶と共有しており、共に一日仏教側の中心として親交を深めたのであろう。明恵は槙の尾、西明寺の清涼寺式釈迦如来像造立に携わっており、その厚い信仰が窺える。

 さて貞慶と明恵による清涼寺式信仰についての調査を目的として、私は平成24年(2012)7月8日に神奈川県立金沢文庫企画展「解脱上人貞慶 鎌倉仏教の本流」を見学した。この企画展で大変興味深い資料を確認することができた。「釈迦来迎図」(13世紀、根津美術館所蔵)である。本図の釈迦像は清涼寺式の特徴を完璧に備えており、かつ彩色が施されていた。菅家洋也氏の『原寸大日本の仏像 京都編』中の清涼寺本尊像復元予想図と比べてみると配色などが酷似している(同書中の復元予想図は清涼寺本尊像の現状の彩色が元となっているので、比較の対象として適切だと考える)。また、毛利久氏の「清涼寺釈迦像変遷考」によると、清涼寺本尊像は貞応元年(1222)に御身拭(仏像を拭き、汚れを落とす宗教行事)が始まったことで急速に剥落が進み、彩色が確認できなくなったという。したがって彩色が施された清涼寺式は、まだ清涼寺本尊像の彩色が確認できる頃の古い作例と考えられる。そのため「釈迦来迎図」の制作時期は13世紀前半にまで遡るのではないか。事実本図の上段に「承元三年六月廿九日書之」とあり、この推定を裏付けている。

 「釈迦来迎図」の上段には法華経の一節(伝貞慶真筆)が、下段には貞慶の好んだ伽陀(仏を称える歌、伝明恵真筆)と梵字が記されている。先述の通り本図の制作年代が13世紀前半だとすると、ちょうど貞慶と明恵の活動時期に重なる。したがって本図と両者の間に密接な関わりがあったことが推測される。「釈迦来迎図」は清涼寺式と貞慶、明恵のつながりを示す資料として重要だと思う。その他にも貞慶の表白である「賢志書状」(12世紀)や「釈迦念仏会願文」(13世紀初め)などが参考になった。「賢志書状」には貞慶の釈迦信仰布教の意志が表明されており、鎌倉への進出に意欲を示している点など大変興味深い。

 「釈迦念仏会願文」は、自らが創始した釈迦念仏会の趣旨を説き、釈迦の恩徳を称える内容である。いずれも貞慶と清涼寺式との関わりを示すものであろう。

 [3]重源による清涼寺式信仰の指摘

 ここでは今までほとんど言及されなかった重源(1121~1206)の清涼寺式信仰を指摘し、そのことが同様式の性格にどのような意味を与えたのかを見ていく。

 重源は源空(後の法然)から浄土教を学び、念仏の弘通に畿内を遊行した。造東大寺大勧進職として同寺の再興に尽くしたことは有名である。中尾堯氏の『旅の勧進聖 重源』の中には彼に関する事績として、[1]貞慶が住した笠置般若寺への唐本大般若経、白檀製釈迦像、銅鐘などの施入、[2]重源が仏師快慶(鎌倉初期に活躍)に造らせた仏像の開眼導師を貞慶が務めた、[3]重源の伊賀別所に清涼寺式釈迦如来像と版本十六羅漢像を安置した御影堂が存在(私は貞慶らとの交流の中で培われたものだと考える)などが認められる。以上の事績から、重源と貞慶らとの間に交流があったこと、重源自身も清涼寺式を信仰していたことが推測される。

 

[続きはこちら]

このページのトップへ戻る

ご意見をお聞かせください

質問:このページの情報は役に立ちましたか?

  • 住所・氏名・電話番号などの個人情報は記入しないようにお願いします。
  • 回答が必要なご意見等はこちらではお受けできません。フォームメールをご利用ください。
  • 文字化けの原因になりますので、丸付き数字などの機種依存文字や半角カタカナは使用しないでください。

作成部署

〒173-8501 東京都板橋区板橋二丁目66番1号
教育委員会事務局 生涯学習課
電話番号:03-3579-2633 FAX番号:03-3579-2635

お問合せ先

教育委員会事務局 生涯学習課 文化財係

TEL:3579-2636
FAX:3579-2635

このページのトップへ戻る

トップページ >  文化・観光・施設・公園 >  文化財 >  第12回櫻井賞 清涼寺式を中心とする特定の模刻像の流行(1)
板橋区役所 郵便番号173-8501 東京都板橋区板橋二丁目66番1号 代表電話番号 03-3964-1111

FAX番号(広聴広報課受付)03-3579-2028 各課へメールを送る

  • 地図
    地図
  • 交通案内
    交通案内
  • お問い合わせ
    お問合せ

地方公共団体(市区町村)コード131199 (c)ITABASHI CITY OFFICE All Rights Reserved.