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公開日:平成26年5月28日
最終更新日:平成26年5月28日

第12回櫻井徳太郎賞 高校生の部 優秀賞受賞作

河内王朝研究          

武蔵高等学校2年 内山 和哉・大熊 久貴

 

第1章 序論

 

 1、1 はじめに                        文責:大熊久貴

 日本の古代国家の形成について考えるに当たり、河内王朝論は外す事のできない難題であろう。三輪王朝には無かった巨大古墳が突如として出現し、朝鮮半島や大陸の文化を感じさせる遺物が多く出土する。このことについてどう考えればよいのか。三輪王朝と違った新たな王朝が河内に立ったのであろうか。もしくは大陸から騎馬民族がここに勢力を立てたのか。あるいは九州の狗奴国が征服した地なのか。等々さまざまな論争が起きているのが、河内王朝論なのである。

 そこで今回内山君と私は、この問題について我々なりに検証し、研究することによってこの難題を少しでも紐解こうとこの論文を記すに至ったのである。それにあたり、机上のみで考察するのではなく、この足で現地に赴き、この目で実物を観察し、この体で本物を体感しようということになった。史学者の水野祐氏は次のように言う。

 「なによりも大切なことは、自らまめに足を運んで千里を遠しとせず、個々の忠実を眼で確かめることが必要である。」(水野祐『高句麗壁画古墳 古墳と帰化人』)。

この言葉を助言として、我々は、我が校の野外活動研究奨励基金という制度を用いることにしながら、平成25年7月11日から同年7月19日の間、大阪府の河内(藤井寺市、羽曳野市、柏原市、太子町)で現地調査を行った。この調査は想像以上に辛く、何より近畿の猛暑は体力的にも精神的にもかなり苦しめられた。御蔭で被っていた帽子が猛烈な直射日光と汗とで変色してしまったほどである。我ながらよく熱中症で倒れずに二人とも無事に帰宅できたものだと思うくらいであった。しかし、はるばる現地に赴いたからこそ味わえる巨大前方後円墳の圧倒的な大きさや、博物館、資料館で展示されている副葬品の美しさ、また現地調査だからこそ得られる新たなる発見、そして現地の人々のやさしさが支えとなっていたことは間違いない。

 今回の現地調査では実際に古代の街道や川沿いを歩き、そこからどのように古墳が見え、どのような立地条件の下、古墳は築造されたのかを検証し、立ち入りが可能な古墳に関しては実際に登ってみて、その古墳の傾斜、高さ、前方部と後円部の高さの違い、頂上から見える他の古墳や古代の街道との位置関係などを調査した。また実際に古墳を一周してそれぞれの角度からどのように見えるのかの調査も行った。よく古墳を上空写真などから古墳の形のあり方や大きさを述べることが多いが、実際の古墳が築造された時代は飛行機など無かったため古代の人々は上空から見ることは無く、横から見ることでその古墳の巨大さを実感していたはずである。これはそういった古代の人々の視線を重要視した調査でもあった。さらに古墳周辺の神社や寺も回り、そこに祀られている祭神や渡来人などの関係性を調査し、河内政権の政治体制を探ろうとした。博物館や資料館では遺物を実際にスケッチしたりするなど、河内特有の遺物の特徴を見出そうと努めた。

 そしてこの調査でこれまで私が考えていた河内王朝論が崩壊させられたとともに、私なりの新しい河内王朝論へと展開し、共同研究者の内山君と議論を続けることによってより一層深い河内王朝論となっていった。

 なお、今回この論文を記すにあたっての最大の目標は三輪王朝と河内王朝の関連性、及び5世紀を境とする古墳の移動と副葬品の呪術的なものから武器、馬具類といった傾向の変化の意義を明らかにすることにある。地域を限定するのがこの賞の応募条件でもあるが、河内王朝について明らかにするにあたってどうしても比較研究という意味で三輪についても触れずにはいられないことをご了承願いたい。されど、最後には河内という土地に的を絞って結論を導き出すつもりでいる。

 共同研究者の内山君は現地調査の際や熱い議論の際にも私の良きパートナーであるともに、私を刺激してくれる存在でもあった。また、我々の研究を後押しして下さった我が校の先生方、我々の質問や要求を快く受け入れてくださった現地の人々と内山君の協力なくしてこの論文は完成しなかったことをここに記すとともに、この場を借りて感謝を申し上げたい。 

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図1 古代近畿中央部

図1 古代近畿中央部
(画像クリックで拡大96KB)

 1、2 河内という場所                     文責:大熊久貴

 河内とはここでは、大阪府東南部の藤井寺市、羽曳野市、柏原市をまたいだ広範囲のことを指す。その河内には応神天皇陵をはじめとして数多くの巨大前方後円墳が点在していて、渡来人に関係した神社や寺も多く、それに関連した遺跡、及び高度な技術を感じさせる遺物も多く出土している。これらは、明らかに三輪王朝(奈良県桜井市や天理市に築かれた初期のヤマト王権)には無かった特徴であるといえよう。また、これらの河内における有力者集団を河内王朝と呼ぶことにする。ちなみに、河内に応神天皇陵をはじめとする巨大古墳が築かれ始めたのは5世紀の頃と見られる。これは古墳の編年研究によって明らかとなっている。

 また、河内の南を東西に貫く古代の道、竹之内街道や南北を貫く東高野街道があるが、特に、竹之内街道に関しては地図上で見てみると(図1赤線)、仁徳天皇陵のある堺市の港から仁徳天皇陵の近くを通って、そして河内の応神天皇陵や日本武尊白鳥陵の間をぬって太子町の孝徳天皇陵のそばを通り、竹内峠を越え、またさらに進むと三輪王朝の勢力地である桜井市(大和・柳本古墳群)を南北に走るこれまた古代の道、山之辺の道に合流するのである。また、大和川(図1青線)に関しても竹之内街道とほぼ向じルートをたどっている。このことから見てみると、竹之内街道と大和川は堺市の港から始まる物流及び文化交流のとても重要な道であることが考えられるとともに、その道、川沿いに河内の古墳群があるということは頭に入れなくてはいけない重要な事実であろう。 

 

 1、3 河内王朝論争`                     文責:大熊久貴

 ここでは、序論として主な学者が唱える河内王朝論を記す。これらの先行研究を鍵にして我々はより一層真実に近づくよう努力しなければならない。なお、ここでの説の名称は都合上、私が命名したものである。ご了承願いたい。

 1 河内王朝、三輪王朝同一説

 これは、古田武彦氏が唱える説で、そもそも王墓の位置が政治的拠点を意味しないとし、さらに規模は違うものの、河内の古墳も奈良盆地(三輪)の古墳と変わらず前方後円墳であることから、文化的、政治的変動は無かったとしている。また、河内への古墳の移動に関しては、瀬戸内海を通じて朝鮮半島及び中国大陸への関心が向かっていくヤマト王権の政治的課題と関係し、ヤマト王権の海外展開を見据えた行為とした上で、河内にはヤマト王権(三輪王朝)の勢力を越えるものは無かったと結論付けている。

 2 王権移動説 

 これは白石太一郎が唱える説で、河内南部では4世紀後半からすでに大型前方後円墳が築かれていることから、この地域に巨大前方後円墳が出現するのは突飛ではないとし、奈良盆地の古墳群では中期の5世紀になっても河内の古墳に及ばないが依然として巨大な前方後円墳が続いていることから、河内への盟主権の移動は武力による権力の奪取ではなかったとする。その上で、邪馬台国以来の宗教的・呪術的権威に依存する状態では上手くいかなくなり、さらに朝鮮半島における高句麗の南下に伴う東アジア情勢の変化によって、早くから外交や交易を担当していたであろう河内や葛城の勢力が次第に大きな役割を果たすようになった。こういった背景のもとここに巨大古墳ができたと白石は考えている。 

 これらを踏まえた上で、白石はヤマト王権は極めて不安定になっており、以上の段階を踏んだ上で、4世紀末ヤマト王権内部でその盟主権が大和から河内の勢力へと移動し、こうした盟主権の移動をいわゆる王朝の交替と理解するのが適切だと述べている。

 3 王朝東遷説

 これは水野祐や井上光貞が述べている説である。九州で勢力を誇っていた狗奴国は女王国すなわち邪馬台国を圧迫し、4世紀に入る前に邪馬台国を倒し、地域ブロックの首長連合としての邪馬台国は崩壊する。そして、4世紀に入る頃には九州全土を狗奴国の支配下にしたというのがこの説の基盤である。

 その上で、九州における両国の抗争に終止符が打たれた頃、本州でも古墳時代へ移行する中で原大和国家(水野は初期ヤマト王権をこのように名づけている)が征服運動を開始していた。その後、ついに本州西半部を統一支配した原大和国家は九州の統一国家、狗奴国と戦うが、崇神天皇率いる原大和国家は四世紀中葉、狗奴国に敗れ、狗奴国は統一国家を樹立したとする。

 そして、朝鮮半島の情勢の変化からいつ朝鮮半島から侵略して来てもいいように本拠地を敵地から遠方に移す必要性が出てきたため、仁徳天皇が狗奴国の首都である九州の日向から政治的、軍事的に交通の要衝として便利な畿内の難波へ遷都した。

 

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