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ムラの世界
古代の村―成増一丁目遺跡、徳丸村―江戸時代の村、6月10日―板橋の戦災、の三題を模型とUMUと呼ばれる特殊なガラスを使用した映像とによって紹介します。
田遊び
北野神社田遊び
田遊びとは、板橋の地に古くから伝わる水田耕作に関連する農耕儀礼の一種。五穀豊穰と子孫繁栄を祈る「予祝」の性格を持っていて、その古式豊かな祭礼は、江戸時代から奇祭であるといわれていました。毎年、徳丸北野神社が2月11日、赤塚諏訪神社は2月13日のそれぞれ夜に行われます。国重要無形民俗文化財に指定されています。
自然・遺跡・文化財
四季農耕図絵馬(明治18年 若木稲荷神社)
東西に長い板橋には、数多くの自然(公園)が残り、武蔵野台地の面影を見ることができます。10万年前にはナウマン象もいました。寺社には伝統的な祭礼も残され、数多くの文化財もあります。現在までに板橋区の指定・登録となった文化財は137件に達しています(平成20年5月現在)。
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板橋の遺跡と考古学
板橋には現在175カ所の遺跡が発見されています。毎年10カ所前後の遺跡が発掘調査され、新たな歴史情報がもたらされています。遺跡は荒川を望む高台の周辺に集中し、最近では高島平のような低地帯からも遺跡が発見されています。高台からは旧石器、縄文、弥生、古墳、奈良平安時代から現代にいたるまでの遺跡が、低地では弥生時代以降の遺跡が多いという特徴があります。 板橋の遺跡が世に初めて紹介されたのは明治16年の事で、小豆沢貝塚が最初です。明治39年には東京帝国大学人類学教室の石田収蔵が、区内を踏査しています。昭和10年代には、日本の考古学史に残る遺跡の発見が相次ぎ、戦後の昭和26年には南関東で最初の旧石器遺跡・茂呂遺跡が発見されました。
石田収蔵肖像写真
石と鉄の造形
弥生時代の磨製石器
旧石器時代から奈良平安時代までの間には、石の加工(石器)から、鉄・銅の加工(金属器)まで、さまざまに変化・進化しました。旧石器時代・縄文時代は打製・磨製の加工石器が主体でしたが、弥生時代になると金属器が出現します。しかしあまり普及はしていませんでした。奈良時代になると農耕具を中心に鉄製品が広がります。
土の造形
土をねって器を作るという発明は、少なくとも1万年前には行われていたようです。板橋でもこの頃の遺跡が発見されています。縄文時代には造形美豊かな土器が多数作られるようになり、次の弥生時代には、華美な装飾のない用途に応じた形の土器が作られるようになりました。土器は時代を写す鏡のようなもので、その中に精神文化のよりどころを見ることができます。ここに紹介した土偶は、縄文時代の地母神を象徴するもので、大地にすっと立ち天を見つめる素朴な表情が印象的です。
土偶
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中山道板橋宿
板橋区の地名発祥の地とされる板橋宿が開かれたのは、江戸時代の初期、中山道の整備と伝馬制度が確立した慶長7年(1602年)頃のこととされています。板橋宿は江戸からの第一の宿としてその名を知られました。宿場は上・中・平尾の三宿に分かれ、全長1,700m。天保14年(1843年)の記録によると、家数573軒、人口2,448人とあります。板橋には川越街道も通じていて、上板橋宿が設けられました。
木曽街道板橋之駅
(渓斎英泉画 天保6年:1835)
文書は語る
徳川家康朱印状
室町時代以前の板橋について書かれた資料は多くありませんが、江戸時代になると多量の古文書が残され、今日に伝えられています。板橋宿の脇本陣飯田家、豊田家を始め、徳丸本村の安井家など、寺院所蔵の文書をふくめると多数にのぼります。これらの文書からは地域の政治・社会制度や事件などのようすを知ることができます。地方文書(ジカタモンジョ)ともいいます。
徳丸原と高島秋帆
荒川右岸に広がる現在の高島平一帯の低地は、江戸時代には徳丸原(トクマルガハラ)と呼ばれ、近隣6カ村の入会地であるとともに、徳川将軍家の鷹狩場でもありました。後には江戸幕府の砲術場となり、天保12年(1841年)5月には、長崎町年寄で西洋砲術家であった高島秋帆によって、日本最初の洋式砲術訓練が行われました。
高島四郎太夫砲術稽古業見分之図
(天保12年:1841)
鷹場と農民
鷹狩は権威の象徴として古代から行われていました。江戸時代には徳川家康以来、代々の将軍がその特権を有していました。特に吉宗は、江戸周辺を6ヶ所に分けた鷹狩場を設け、板橋は戸田筋として志村に鳥見屋敷を置いて管理されていました。近隣の村々は、鷹のための餌の手配や鷹狩の勢子として動員されました。
13代将軍御鷹狩図
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近代の板橋
明治維新とともに、板橋には西洋の技術導入による「火薬製造所」が作られ、ここを中心に多数の工場ができました。また、板橋には北豊島郡の役所が置かれ、にぎわいました。しかし、板橋の大半は農村部で、都市近郊の農産物供給地として江戸時代以降の役割をになっていたのです。その後、工場の進出にともない、そこで働く人達もでてきました。
圧磨機圧輪記念碑
(加賀西公園内)
欲しがりません勝つまでは
昭和は恐慌に始まり、日中戦争・太平洋戦争と日本全体が聖戦という名の戦争へ突入した時代でもありました。国民は「欲しがりません勝つまでは」の合言葉のもとに耐乏生活を強いられました。昭和19年(1944年)暮からは戦況の悪化によりアメリカ軍の空襲が始まり、終戦時までに500人以上の板橋区民が亡くなっています。
出征兵士を送る
学童疎開
水上だより
(昭和19年:1944)
昭和19年9月には、東京都下の国民学校児童に対して、遅々として進まない縁故疎開よりも集団による疎開を決定しました。板橋では主として群馬県の沼田市を中心とした地域に19校6,000人の児童が、100カ所あまりに分散して翌20年10月まで滞在しました。
終戦と戦後復興
昭和24〜25年頃、当時中学生が空き缶などで作った東上線63型の模型
国破れて山河あり……板橋には陸軍第二造兵廠、成増飛行場などの軍事施設が存在したため、空襲被害にあいました。板橋駅前は焼け野原となり、ヤミ市が作られました。ヤミ市はこのほか4カ所につくられましたが、昭和23年頃から撤去されはじめました。やがて朝鮮戦争による軍事特需によって、日本経済は復興の第一歩をしるし、高度成長をとげます。
板橋駅周辺
(昭和23年)
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いたばしびと(籔内 佐斗司 作)
いたばし「ムラの世界」を日本中世的なお伽噺の世界に題材を求め、老若男女が楽しめるものとしました。
板橋狐
いたばしきつね
板橋兎
いたばしうさぎ
板橋童子
いたばしどうじ
板橋小町
いたばしこまち
板橋長者
いたばしちょうじゃ
人間国宝
故
関谷四郎
関谷四郎氏は明治40年(1907年)秋田県生まれ、河内宗明氏に師事して鍛金家をめざしました。戦前から板橋区内に住居を構え、昭和52年重要無形文化財「鍛金」の技術保持者(「人間国宝」)に認定されました。平成6年に亡くなり、認定を解除されています。
接合花瓶
鉄接合花瓶
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郷土資料館の敷地には、2棟の建物と井戸・玄関が野外展示されています。農家建築の田中家住宅では、四季折々の年中行事を催しています。
田中家住宅
江戸時代後期に建てられたもので、寄せ棟・茅葺き・田の字型の間取りという、典型的な日本の民家建築です。徳丸地区から移築。
納屋と井戸
納屋は切り妻・瓦葺きの二階建てで、明治時代の建築です。1階には農機具を展示しています。蓮根地区から移築。井戸は大谷石を丸くくり抜いたもので、杉皮葺きの屋根があり、滑車の先に釣瓶(ツルベ)がついています(車井戸)。
新藤楼玄関
この建物は、板橋宿(町)にあった三階建ての遊廓建築で、明治18年に建築されたものです。北豊島郡の中心地であった板橋を代表する高楼建築として有名でしたが、昭和47年の解体にともない、唐破風様式の玄関のみを移築しました。
年中行事
田中家住宅を中心として板橋の地域色豊かな年中行事を開催しています。正月には繭玉作り、3月には雛祭り、5月が節句、7月は七夕、9月には月見、12月には事八日(コトヨウカ)など、特に農村地域に密着した行事を行っています。