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〒175-0092 東京都板橋区赤塚5-35-25 TEL.03-5998-0081 FAX.03-5998-0083 |
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| 1 板橋について教えてください | |
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東京23区の北西部、埼玉県との県境に位置し、25万世帯、51万人の人々が暮らす街です。地域の産業では製造業の比率が高く、減少傾向にはあるものの、従業員数、出荷額ともに23区では上位の位置を占め、東京都区部の代表的な工業集積地です。また「高島平団地」などの住宅群を始め、近年の住宅建設により、東京のベッドタウンとしての性格を持つ地域です。 |
| 2 板橋はどのような歴史をたどってきたのですか | |
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人々が生活した痕跡として板橋で発見された最も古いものは、約3万年前の旧石器時代のものです。約1万年前からの縄文時代では集団で「ムラ」を形成した跡も見つかっています。弥生時代後半から古墳時代前半の遺跡が最も多く発見されていますが、この時期に、板橋の地でどのくらいの人々がどのような生活をしていたかなどは、不明の部分が多いのです。 平安時代までの遺跡が多く発見される反面、以降の鎌倉・室町時代の板橋を知る遺跡は少なく、とりわけ庶民生活がわかるものはほとんど発見されていません。古文書によれば、武士団「豊島一族」、「武蔵千葉氏」、「太田氏」、「後北条氏」などの支配の交代があったと伝えられます。 江戸期に入ると、この地域は徳川幕府の直轄である天領、大名領、旗本領、寺領などが複雑に入り組んでいました。また交通網の整備も進み、五街道の一つである中山道・板橋宿、脇街道であった川越街道・上板橋宿などが設けられ、数百年を経た現在でも、商業地として地域に密着した姿を保っています。 明治以降の板橋は、板橋火薬製造所の設置(1876年)による軍需産業拠点としての性格、荒川流域に開発された広大な水田地帯による東京の穀倉地帯としての性格を持っていました。第二次世界大戦後は、兵器製造の技術をベースとした化学・鉄鋼・精密機械産業を発展させ、水田地帯は昭和40年代に区内最大の団地群に姿を変え、現在に至っています。 |
| 3 郷土資料館はどのようなお仕事をしていますか | |
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まず板橋の歴史に関する資料を集めます。費用を払うこともありますが、ご好意により、寄付していただくこともあります。また大きな博物館(国立博物館など)や研究機関に保存されている膨大な資料の中に板橋に関するものが含まれていることがあるので、それを調査し、撮影、複写、複製を行うこともあります。一般の方々がお持ちの資料でも売却や寄付ができない大切なものであれば、撮影、複写、複製により記録を保管するように努めています。 収集した資料は大切に保管するとともに、その資料に関する歴史的事実の調査研究を常時行っています。そして研究結果がまとまれば、テーマを決めて企画展・特別展を開催します。展示開催のときは、保管してある資料を展示するだけでは理解しづらくなります。そのために調査研究の過程では、関連する資料があるかどうか、あるとすればその資料の所在も調べます。展示開催に合わせて関連する資料の借り入れを手配し、展示のテーマにあわせて当館の資料とともに陳列するのです。逆に他の博物館に展示用として資料を貸し出す場合もあります。 なお遺跡の発掘に関すること、文化財の指定・保護に関することは板橋区の生涯学習課文化財係で取り扱っています。 |
| 4 歴史について勉強したいのですが | |
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企画・特別展示では講演会を開くことが多くあります。この場合は展示のテーマに沿った内容の講演会となります。年2回の講座も開催します。現在は「拓本の実技」と「古文書講読」の2テーマで毎年開催しています。展示の開催・講演会・文化講座ともに板橋区の広報紙に掲載しますのでご覧ください。文化講座を受講される場合は、申込みが必要です。 |
| 5 本は発行していますか | |
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特別展では、研究成果や資料の写真などを皆さんに知っていただくために展示図録を発行し、販売しています。また埋蔵文化財、有形・無形文化財などを紹介する「文化財シリーズ」、区史編さん事業でまとめられた「板橋区史」の販売も行っています。 価格については、電話でお問い合わせください。郵送で購入される場合は送料をご案内します。料金は現金書留または郵便小為替で、送料は切手でお願いします。代金・送料を先にお送りいただきますので、「刊行物名称」、「購入部数」、「送付先」を書いたものを同封してください。 また、郷土資料館発行の本は板橋区役所区政資料室でも販売していますし、板橋区立図書館で閲覧することもできます。 |
| 6 祖父母が使っていた古い家財があるのですが、役に立てたいと考えています | |
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郷土資料である民具については寄贈の受付をしています。お電話でお問い合わせください。お問い合わせの際は、ご住所、お名前、電話番号、下見の日程などを伺い、都合のよい日に館職員が訪問させていただき、資料を拝見します。 寄贈は全てのお申出を受け入れるわけではありません。今までに他の方々から寄贈されたものと類似の資料はお断りする場合があります。保管場所に限りがあるため、全てを受け入れることができないのです。 寄贈の受領が決まった場合は、受取りの日程を打ち合わせのうえ、大型の資料は車両を手配し、郷土資料館へ運びます。受領書は、後日お礼状を兼ねて作成し、お送りします。 |
| 7 資料館はなぜ赤塚にあるのですか。赤塚はどのような歴史があるのですか | |
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赤塚の地域は、14世紀頃と推測される古文書に足利直義の所領「武蔵国赤塚」として登場するのが最も古い記録です。その後いくたびかの領主交代を重ね、武蔵千葉氏の居城跡とされるのが現在の赤塚城址です。荒川の広大な氾濫原に面した平山城で、眼下には沼地が広がっていました。 1971年に歴史と豊かな自然環境に彩られたこの地を「教育と文化の森」として整備する「教育の森構想」が決定され、現在は東京都立公園となっている赤塚城址のふもとに郷土資料館が建設されたのです。 |
| 8 昔の風習や生活習慣を知りたいのですが | |
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郷土資料館では、幕末期の建築と推測される農家の建物を保管しています(田中家住宅)。寄せ棟・茅葺き・田の字型間取りなど、関東地方の民家としては典型的な構造で建てられたものです。建物内は自由に見学できますので、「むかしのくらし」の雰囲気を体験できます。 この建物を利用した年中行事の再現も行います。ひな祭り、端午の節句、七夕、十五夜などのお飾りを農家の建物で再現します。とりわけ「おひなさま展」は資料館の人気イベントです。江戸期〜昭和期までの雛人形を年代順に並べますと、質素な農家の座敷が、この時ばかりは艶やかな色彩と雰囲気に包まれます。 パンフレット「いたばしの年中行事」を無料で用意してあります。1年間の農耕儀礼や年中行事について記載してあります。 |
| 9 新撰組局長 近藤勇の墓が板橋にあると聞きましたが | |
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今の住居表示でいうと「北区滝野川」になります。 JR埼京線「板橋駅」東口にあたります。 徳川慶喜による大政奉還(1867年)により徳川政権が崩壊し、翌年には中山道を官軍が進軍してきました。近藤は「甲陽鎮撫隊」を組織し最後の抵抗を試みましたが、捕らえられ、板橋宿平尾の名主豊田家に幽閉された後、宿場はずれの刑場で処刑されたのです。 墓碑は1876年、元新撰組隊士 永倉新八の尽力により建立されました。 |
| 10 徳川将軍が狩りを行う場所が板橋にあったそうですが | |
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将軍家の狩りは、将軍の個人的な娯楽としてのほか、武士の軍事訓練、民情視察を目的として行われました。三代家光のときに大規模な鹿狩りが板橋でとり行われ、当時の記録では1日で約550頭の鹿を討ち取ったというから相当なものです。 区内の鷹狩りの狩場である戸田筋は、現在の荒川の右岸一帯をさしていました。鷹場の管理は鳥見という役人が行い、その屋敷は志村にありました。農民は、鷹の餌である袋蜘蛛、螻蛄(ケラ)、えびつる虫などを期日までに上納し、さらに狩りの際には鳥や獣を駆り立てるための「勢子(人足)」として動員されました。 |
| 11 常設展示紹介をみると、江戸時代の古文書が収蔵・展示されていますね | |
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江戸時代は、将軍から農民にいたるまで文書による情報伝達の方法が確立した時代です。前時代の村の土豪層による直接的な支配から、領主が文書を通じて領地を支配する形態に変化していった事が背景にあります。 地方文書(ジカタモンジョ)は、領主の文書を受領し、それを伝える村役人が残したものです。領主から命令を伝える触書や領主へ提出する訴状の写しや控え、村の土地台帳にあたる検地帳、村民の諸権利を証明する証文類などが多く含まれ、大事に保管され、引き継がれてきました。 東京都有形文化財に指定されている徳丸本村名主安井家文書は、総点数3,672点、中山道板橋宿との関係、鷹場や砲術訓練との関係などの資料が数多く含まれ、近世における江戸近郊農村の問題を究明するうえで貴重な歴史資料です。 |
| 12 川越街道の歴史を教えてください | |
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中山道の脇往還として整備されてきました。それ以前は、太田道灌によって築城(1457年)された江戸城と河越(川越)城を結ぶ線として設けられたと伝えられ、沿道の村々も江戸時代以前から開発されていたと考えられます。 街道は板橋宿平尾で中山道と分かれ、武蔵野台地を西方に進み川越に至る全長10里(40km)です。この間上板橋村など6か村に宿場が設けられました。上板橋村は13の字によって構成され、街道沿いは宿と呼ばれ、江戸より下、中、上の3宿に区分されていました。中宿(現在の板橋区弥生町62)に名主屋敷があり、本陣や問屋場の機能も果たしていたと考えられます。 |
| 13 板橋の鉄道はいつごろできたのですか | |
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新橋〜横浜間にわが国初の鉄道が開業したのが1872年、その11年後の1883年に日本鉄道株式会社により上野〜高崎間、1885年に品川〜赤羽間が相次いで開業し、板橋駅も1885年3月に開業しました。そして1914年、東上鉄道の池袋〜川越間が開業、近郊地帯の都市圏の拡大をもたらす役割を担いました。現在は廃止されていますが路面電車として親しまれた市電は1929年に巣鴨〜下板橋間が開業し、後に志村橋まで延長されたのです。 戦後、路面電車は国道17号線の交通量増加に伴って1966年に廃止され、入れ替わり1969年12月に都営地下鉄6号線(都営三田線)巣鴨〜志村間が開業、後に西高島平まで延長されました。1983年6月には営団地下鉄有楽町線も開業し、現在の鉄道路線が出来上がりました。 |
| 14 板橋に大名屋敷があったのですね | |
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加賀藩前田家の下屋敷です。 板橋に下屋敷が移転したのは1679年のことでした。当初は6万坪、翌年には隣接地の農民や東光寺の土地14万坪を借り受けるなど、3回の拝領の結果、下屋敷の総面積は21万7000坪余りとなったのです。入れ替わりに江戸市中の屋敷や駒込邸を幕府に返還しました。 当時の記録によれば、 「……松雲公(5代藩主綱紀)寛文の入国以来東海道通行止め給い、越後路より往還となり、其便よければ平尾の地を抱え給うるべし」(『東邸沿革図譜』より) と記されています。 つまり加賀藩の参勤交代が中山道回りになったのが、板橋を選んだ大きな理由だったのです。 |
| 15 第二次世界大戦では、板橋の人々も大変な苦労があったと思いますが | |
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1931年の満州事変、6年後の日中全面戦争を経て、1941年12月の真珠湾攻撃に始まる「大東亜戦争」により、日本は全世界を相手とした戦争の道をひた走ることになりました。 20歳から40歳までの男子は召集令状を受け取ると、死を覚悟した出征に臨み、神社で「武運長久」を祈念し、家族と最後の写真を撮ることで門出に備えました。区内の神社には参拝した出征兵士の記録(「奉公録」)が残されているところもあります。 開戦当初こそ相次ぐ戦勝の報に酔いしれていた人々も、戦況が守戦に転じると極端な耐乏生活を強いられ、防空訓練、勤労動員に明け暮れるようになりました。そして国内も米軍の空襲により戦場と化していったのです。 板橋区内の空襲は1944年12月3日、茂呂町、上板橋町に始まり、翌年4月13日には区役所、陸軍第二造兵廠、養育院など公的施設の大半が焼失しました。さらに同年6月10日、上板橋地区が空襲にあい、269人の人々が亡くなったのです。 戦後の生活は飢えとの戦いから始まりました。いたる所で焼け跡のやせ地が耕され、家庭菜園が作られました。いつ果てるともないインフレの中で、買い出しに励み、配給の不足分を補うなど生きるための努力が続けられました。東武東上線は埼玉県へサツマイモの買い出しに出かける人々が乗車することから「イモ電」と呼ばれました。やっと手に入れた食糧も検問で取り上げられることも少なくありませんでした。板橋には戸田橋と白子橋に検問所があったのです。 1946年1月、陸軍第二造兵廠の隠匿物資は区民の管理のもとに、公示価格の半値で3,000人に特配されました。警視庁は配給を停止させ、残りの物資を正規のルートで配給することとし、特配を指揮した2名を逮捕したのです。「板橋事件」と呼ばれた出来事でした。 国全体の民主化が進められる中で、1947年5月には地方自治法が施行され、戦後最初の区長選挙、議員選挙が実施され、区政においても民主化が図られました。しかし収まらないインフレ、逼迫した財政状況の中で食糧、住宅、仕事など人々の要望に応えることは容易ではなく、辛酸を舐めた人々の苦労が報いられるのは高度経済成長期を待たなければなりませんでした。 |