こうぶんしょ館電子展示室46号「石神井川のいま・むかし」

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ページ番号1009264  更新日 2020年1月25日

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こうぶんしょ館電子展示室46号

「石神井川の いま・むかし」

過去から現在にいたるまで区民の生活に身近な石神井川。
公文書館には、行政資料、写真資料など、石神井川に関するたくさんの資料が保存されています。
石神井川は、区民にとって親しみやすいテーマということもあって、この『電子展示室』でも、すでに第19回「石神井川のはんらん」、第25回「石神井川と牧場」と2度取り上げられております。
今回の電子展示室では「石神井川のいま・むかし」と題し、石神井川の概要と江戸時代の清流をしのぶ記録を紹介します。そして清流から産業へとその役割を変えてゆく石神井川を、公文書館所蔵の写真資料からふり返ります。
河畔の桜並木と合わせて区のシンボルとして今も流れ続ける石神井川とそのほとりの風景をどうぞご覧ください。

写真1
石神井川の流れと美しく咲く桜

石神井川とは

石神井川は、東京都の北部を東西に横断する全長25.2キロメートルの一級河川です。水源である小平市御幸町付近の窪地から、西東京市(旧田無市)へと流れ、練馬区で富士見池・三宝寺池・豊島園池の湧水、板橋区では田柄川と合流した後、そのまま北区へと流入し(北区付近では滝野川、あるいは音無川と称されています)、同区堀船3丁目付近で隅田川へ合流しています。
流域付近には、多くの遺跡があるように古くから人々が暮らし、中世には豊島氏が栄え、近世には流域40余村が灌漑用水(石神井用水)としてその水を利用し、農耕をおこなっていました。また下流の滝野川辺りは「音無渓谷」と呼ばれ、王子飛鳥山付近の、権現の滝・大工の滝・不動の滝・見晴の滝・弁天の滝などが連なる渓谷美、紅葉の景観は、多くの人々に知られていました。安藤広重の『江戸名所百景』をはじめとした名所絵には、その当時の様子が描き込まれています。
近代に入ると石神井川の水は、板橋に置かれた陸軍第二造兵廠板橋火薬工場で、黒色火薬製造の動力源となる水車を回すために用いられました。また王子付近では、日本最初の用紙製造のための用水としても利用されてきました。
戦後には、石神井川流域一帯の都市化進展と共に、排水路化の憂き目にあい、水質汚濁が深刻な問題となった時期もありました。しかし、近年はその後の河川浄化運動の成果もあって、水質改善の傾向が見られています。

写真2
桜の花と清流
写真3
上板橋遊泉園(昭和2,3年頃)

清流石神井川の記憶(江戸時代)―美しい蛍の飛び交う川―

「西丸大奥より蛍御所望の事」
あるとき磯宮様(五十宮(イソノミヤ)とも、徳川家治室)の御側女郎衆が集まって、蛍籠をつくりました。その年の夏、蛍籠に入れる蛍を差し上げるようにとの命が、伊奈半左衛門に下りました。そこで半左衛門は役人・百姓などに申し付けて、毎日まいにち西丸へたくさんの蛍を差し上げたのですが、本所・目黒あたりや小石川あたりでとれた蛍は、光の色合いがあまり良くなく、宇治勢田(瀬田川)の蛍には似ていないということで御意に叶うことはありませんでした。
そのような折り、この話を聞いた田安御簾中様(近衛通子、田安宗武室)は、「御府内の蛍はどこのものも宇治の蛍の光には似ておりません。しかしながら御府内には王子の麓に石神井川という所があり、この場所は蛍の名所ということでそこの蛍を取り寄せたことがあるのですが、その蛍はよく宇治の照りに似ておりました」と仰せられました。
そこですぐさまこのことを西丸から伊奈半左衛門へ申し付け、石神井川より蛍を取り寄せたところ、その蛍の照りは誠に宇治の蛍のようで、たいそう宮様はお楽しみになったとのことでした(馬場文耕「宝丙密秘登津」(ホウヘイミツガヒトツ)より)。
宇治瀬田の蛍と変わらぬ光を放つ御府内きっての「蛍」が舞っていた石神井川。その美しさは当時江戸城大奥でも知るところとなっていたようです。

写真1
昭和26年の石神井川と魚とり(昭和26年)
写真2
石神井川栗原堰(川遊びする子達)

水害とのたたかい

このような石神井川も、ときには私たちに、自然の恐ろしさを垣間見せることもあります。以前、電子展示室第19号でも紹介しましたが、昭和33年(1958)9月の狩野川台風で、都内の中小河川の大部分が氾濫したとき、板橋区内でも石神井川が氾濫し、大きな被害をもたらしました。
下頭橋付近では、上流の木造の橋が流され、下頭橋の橋げたに激しくぶつかり、この木橋は道路に打ちあげられました。被害は、浸水地域5平方キロメートル、浸水家屋12800戸におよび、この台風での災害は以後の河川対策において常に教訓とされることとなりました。その後も昭和51年(1976)9月の17号台風、53年(1978)4月と54年(1979)5月の集中豪雨により石神井川は度々氾濫しています。
石神井川の改修工事は、狩野川台風の翌年である昭和34年(1959)以降、本格的に護岸工事がはじめられ、昭和58年(1983)には1時間に50ミリの降雨に対応できる規模の改修工事も終えています。なお、現在は75ミリレベルでの降雨にも対応できるよう河川設計がなされています。

写真3
暴れ川の石神井川
写真4
石神井川の水害

石神井ってなに?

「石神井(シャクジイ)」という地名が文献にはじめてあらわれたのは、南北朝時代(14世紀中頃)前後の作成と推測されている「石神井郷相伝系図」(宮城豊島文書)の中です。永禄2年(1559)の奥書を持つ「小田原衆所領役帳」にも「石神井郷」の記述があり、江戸時代になるとその石神井郷は、上石神井村・下石神井村・谷原村などに分けられたと推測され、慶安年間(1648~52)に成立した「武蔵田園簿」には、すでに各村の名が見うけられます。
明治22年(1889)、これらの村と関村・田中村などが合併して成立した石神井村は、昭和7年(1932)、東京市に編入されると板橋区の管轄下に置かれます。このとき町名には、「石神井関町」などというように「石神井」を冠する名称がつけられました。
さらに昭和24年(1949)に練馬区が板橋区から分離した後の措置として、区内町名につけられた「石神井」の冠称は一斉にはずされ、その後の新住居表示では、かつての上・下石神井の地域には、下石神井・石神井台・石神井町・上石神井・上石神井南町という町名がつけられました。
なお、「石神井」の地名に関しては、寛政4年(1792)に記された「四神地名録」によれば、石神の神社の号を持つ小祠(石神井神社)の御神体になっており、神代以前に井戸から掘り出されたと伝えられる石剣(実際は石棒か)に「石神井」の地名の由来があるという現地の説が紹介されています。また同書は、当時現地では「しゃくし(じ)村」と当地名を呼んでいることも記載しており、「しやくじミち」と記してある石造物も存在するということです(渡辺嘉之氏執筆「石神井」の項、『東京の地名由来辞典』)。

写真1
石神井川の浚渫
写真2
石神井川の護岸工事

石神井川の桜並木

現在でも多くの人びとの目を楽しませてくれるこの石神井川の桜並木。
これからも板橋区のシンボルとして、春が到来するごとに私たちの心を和ませ続けてくれることでしょう。
[参考文献]
馬場文耕「宝丙密秘登津」(『未刊随筆百種』第10巻、臨川書店、1969年)
『角川日本地名大辞典13 東京都』(角川書店、1978年)
『いたばしの河川 その変遷と人びとのくらし』
(文化財シリーズ第52集 板橋区河川調査報告書、板橋区教育委員会、1986年)
『石神井川だより』創刊号~第14号
(板橋区公害対策課(環境保全課)、1990~1997年)
『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(平凡社、2002年)
竹内 誠編『東京の地名由来辞典』(東京堂出版、2006年)
※写真のすべては、公文書館で閲覧、利用(一部利用できない場合もあり)することができます。

写真1
昭和20年代後半から30年代の石神井川桜並木
写真2
現在の石神井川の桜並木(加賀付近、平成19年撮影)
写真3
現在の石神井川の桜並木(加賀付近、平成19年撮影)

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