こうぶんしょ館電子展示室44号「川越街道上板橋宿」

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ページ番号1009266  更新日 2020年1月25日

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こうぶんしょ館電子展示室44号

「川越街道上板橋宿」

中山道の脇往還として知られる川越街道は、古くから開かれていたようで、長禄元年(1457)、太田道灌(オオタドウカン)が川越城を築城した当時には、すでに同時期築城された江戸城との間の連絡路に用いられていたと考えられています。
さらに、江戸幕府開幕後には、将軍徳川家康の命令により街道の整備が進む中で、五街道(東海道・中山道・奥州街道・甲州街道・日光街道)に次ぐ重要幹線として川越街道もまた整備が進められました。それは川越が南関東の穀倉地帯の中心に位置し、ここに集まる農産物を確保することが江戸城の兵糧を安堵することに繋がり、また江戸城防衛の前線拠点として川越(城)が重要な位置にあったからでしょう。
上板橋宿は、そのような川越街道の第1番目の宿場であり、江戸から下宿、中宿、上宿の3宿に区分されていました。宿場の範囲は現在の弥生町1番地から下頭橋のだらだら坂がその地に当たります。ここは、宿場とはいっても、中山道板橋宿と異なり、宿場の規模も極めて小さく、問屋場・本陣も設けられず、名主河原与右衛門宅がこれらの機能を兼ねていました。その理由は、この街道を利用する大名が川越藩主のみに限られていたためで、わざわざそのための宿泊施設としての本陣をおく必要もなかったことから、名主家を休憩場として間に合わせていたようです。
名主屋敷は中宿、現在の弥生町62番地付近にあり、この向かい側(隣接していたともいわれている)に代官所がありました。
文政6年(1823)の上板橋宿の町並みは、6町40間(約740m)、居村・宿内を合わせた全体の戸数は397戸、このうち宿内には90戸の家が軒を並べていたが、概して純農村地帯の様相を呈していました(「地誌書上帳」小林家文書)。
参考文献
『文化財シリーズ第45集 いたばしの古道』(板橋区教育委員会、1983年)。
『図説 板橋区史』(板橋区、1992年)。
『川越街道展 -板橋から川越まで人・道・歴史-』(板橋区立郷土資料館、1992年)。
『日本歴史地名大系第13巻 東京都の地名』(平凡社、2002年)。
※写真および参考文献のすべては、公文書館で閲覧、利用(一部利用できない場合もあり)することができます。

絵画
【図1】 旧川越城主松平大和守侯行列図巻(部分『図説 板橋区史』用収集写真より 原本個人蔵)

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