渋沢栄一と板橋区

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ページ番号1031260  更新日 2021年2月12日

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渋沢栄一像

渋沢栄一の理念が息づくまち、板橋

戦前から都内有数の工場集積地として発展してきた板橋区は、光学技術や印刷業が集積するなど、都内有数のものづくりの拠点として発展してきました。その歩みは、日本の産業や科学技術の発展に寄与しながら、日本の近代化に大きく貢献し、現在も区は産業のまちとして高く評価されています。

このような歴史に深く関わっているのが、近代日本経済の父・渋沢栄一です。

板橋区は、令和2年11月11日に渋沢栄一記念財団、東京都北区、東京商工会議所、埼玉県深谷市、深谷商工会議所、ふかや市商工会の6者による『渋沢栄一翁の顕彰に関する包括連携協定』に新たに加入しました。

板橋区が渋沢栄一を顕彰することとしては、実業家としての一面に加えて社会福祉や文化の支援者であった点が挙げられます。渋沢は、区内の養育院(現、東京都健康長寿医療センター)の経営に携わり、同院長を長らく務め、関東大震災後に区に移転してきた養育院を中心に日本の社会福祉を支え、医療の発展に大きな影響を与えました。

一方で、現在板橋区を中心に活動を行っている都指定文化財の「説経浄瑠璃」(仏教を広めるために伝説や説話に脚色を加えて演奏する音楽)を伝える若松若太夫を支援するための「若松会」を設立した際の発起人の一人でもあり、文化の支援者としても活躍しています。

このように、2024年の新紙幣の肖像に選ばれた渋沢栄一は、板橋区との間に浅からぬ縁があります。

困難を乗り越え、挑戦し続けた大実業家

「近代日本経済の父」といわれる渋沢栄一は、天保11年(1840年)、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。

幼い頃から家業を手伝い、7歳になると「論語」をはじめとする学問を学びます。

20代で倒幕思想を抱き、23歳でいとこの渋沢喜作とともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕官することになりました。一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、パリ万国博覧会を見学、欧州諸国の実情にふれることになります。

明治維新が起こり帰国すると、日本で最初の合本(株式)組織を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わりました。

1873年の大蔵省退官後は、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに、約500もの企業の設立に関わったといわれています。

また、約600もの社会公共事業、福祉・教育機関の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。

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