板橋散策コース
板橋散策コース
江戸日本橋から二里半、かつて中山道の宿場として栄えた板橋宿があるエリアです。
板橋駅⇔板橋本町駅 4.5km
JR埼京線 板橋駅
↓(2分)
1 近藤勇の墓
慶応4年(1868)、流山で捕らえられた新撰組局長の近藤勇は、当時板橋宿に置かれていた新政府軍の本陣に送られ、その後処刑されました。このお墓はその近く、現在の板橋駅東口前に立てられています。
↓(18分)
2 加賀公園
江戸時代、このあたり一帯には加賀藩前田家の下屋敷があり、その広さは21万7千坪余りにものぼりました。この公園は屋敷内庭園にあった築山の跡です。明治から終戦までは、この地に火薬を製造する板橋火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所)がありました。
↓(10分)
3 東光寺
室町時代の創建と伝わる浄土宗寺院です。境内には、青面金剛のみごとな彫刻がほどこされた寛文2年(1662)の庚申塔や、江戸時代に平尾一里塚上にあったと伝わる石造の地蔵菩薩座像、明治時代になって板橋に移り住んだ子孫が建てた戦国時代の武将宇喜多秀家の供用塔があります。
↓(2分)
4 観明寺
室町時代の創建と伝わる真言宗寺院です。本尊の聖観音立像は12世紀頃の作と考えられています。境内には、寛文元年(1661)の庚申塔や加賀藩下屋敷から遷されたといわれる稲荷社と赤門があります。
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5 平尾宿脇本陣跡
板橋平尾宿の脇本陣豊田家の屋敷跡、豊田家は代々市右衛門を世襲し、名主も兼ねました。近藤勇が処刑までの間監禁され、また、江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダが逗留したこともあります。
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6 板橋三丁目縁宿広場
板橋三丁目にある公園で、園内に立てられた高札板には、加賀藩下屋敷の説明やいたばし観光ボランティア「もてなしたい」が作成した、中山道六十九次の宿場紹介や区内の街角情報のパネルが掲示されています。
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7 いたばし観光センター
「いたばし観光センター」は、板橋区の様々な観光情報を集約し、内外に発信する情報拠点です。区内の観光資源に関する情報提供や観光グッズの販売、パネル展示などを行っています。
↓ (4分)
8 遍照寺
仲宿40-7
創建年代は不詳。再々の火災に遭い、1871年の廃仏毀釈の際に廃寺となっていましたが、1947年、先代の住職によって再興されました。境内は宿場時代は馬つなぎ場だったことから、馬頭観音が三基安置されています。
↓ (4分)
9 板橋宿本陣跡
代々新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡です。参勤交代で通行した大名や幕府の公用の武士、僧や公家などが休憩しました。
↓ (3分)
10 文殊院
江戸時代前期、延命地蔵を祀るお堂を寺院としたと伝えられている真言宗寺院です。本尊の文殊菩薩坐像は寛文年間(1661-1673)の作と伝えられています。板橋宿本陣を勤めた飯田家の菩提寺で、墓地には、飯田静の墓や宿場の飯盛旅籠の一つ「大盛川」の墓などがあります。
↓ (2分)
11 中宿脇本陣跡
代々宇(卯)兵衛を世襲し、板橋宿中宿の名主を務めた脇本陣飯田家の屋敷跡。幕末には14代将軍家茂へ降嫁する和宮が宿泊し、また明治初年に大宮氷川神社に行幸する明治天皇が休憩しました。
↓ (3分)
12 板橋
旧中山道の仲宿付近、石神井川にかかる橋です。板橋の地名の由来になったとも言われています。「延慶本平家物語」など文献にも「板橋」の名は見られ、鎌倉時代にはすでに地名にもなっていたと考えられています。花見の頃になると、石神井川の上流から下流まで、桜の花が咲き誇ります。
↓ (3分)
13 縁切榎
江戸時代から板橋宿の名所として名高かったのがこの縁切榎です。「悪縁は切ってくれるが良縁は結んでくれる」と言われ、庶民の信仰を集めていました。
↓ (4分)
14 智清寺
大和町37-1
↓ (3分)
15 日曜寺
正徳年間(1711年~1716年)の開山といわれ、享保年間(1716年~1736年)に田安宗武によって再興されました。山門には、松平定信の書いた扁額があります。
↓ (9分)
都営三田線 板橋本町駅
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