高島平の地名の由来は高島秋帆

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ページ番号3000469  更新日 2022年5月11日

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高島平の歴史を紹介中!

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ミニ企画展「高島平誕生ヒストリー」の様子

ミニ企画展「高島平誕生ヒストリー」では高島平の地名の由来となった高島秋帆と高島平団地についてコンパクトに紹介しています。

高島秋帆とは

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徳丸原で西洋式砲術調練を行っている様子
「阿蘭陀直伝高嶋流砲術巻」

 高島秋帆は、長崎の町年寄と呼ばれる町の運営を監督する最高役職で父の協力で西洋流砲術を築いた砲術家です。

 天保12年(1841)5月9日、高島秋帆とその弟子99人は、幕命により徳丸原(現、高島平一帯)で西洋式砲術調練を披露し、幕末~明治維新期の軍制改革のきっかけをつくったとされます。天保13年、えん罪により逮捕、ペリーが来航した嘉永6年(1853)に罪を許されました。その後、幕府の軍事訓練施設である講武所で砲術師範を務め幕府に尽力し、慶応2年(1866)に幕府の終焉を見ることなく亡くなります。

大正時代に建った徳丸遺跡碑と紀功碑

 それから時が経ち、大正11年(1922)に陸軍を中心に高島秋帆を顕彰する動きがありました。この顕彰活動により当時徳丸原の弁天塚(現在の新高島平駅西側の高架下付近)に徳丸原遺跡碑、松月院に紀功碑をそれぞれ建立しました。徳丸原遺跡碑は、団地建設に伴い徳丸ヶ原公園へ移設されました。

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徳丸ヶ原公園の徳丸原遺跡碑
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松月院の紀功碑

戦後、徳丸原は高島平団地へと変わる

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団地建設前の徳丸原は、一面田んぼと言われていました

 徳丸原一帯は、昭和36年(1961)頃から土地開発の計画が持ち上がり、当時の日本住宅公団を主軸に333ヘクタール(約100万坪)の農地を全て買い上げて新しい町を作る流れでした。

 昭和40年(1965)、板橋区都市区画整理事業として都市計画(団地建設)が決定、土地権利者を中心とした審議会で新しい地名(住居表示)が検討され、かつて徳丸原で砲術訓練をおこない、一躍天下にその名を轟かせた高島秋帆の姓と地形の「平」から「高島平」と名付けることが決まり、昭和43年(1968)10月20日の「板橋区のお知らせ」で高島平と呼ぶことを発表しました。

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団地建設の様子 昭和46年(1971)
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高島平駅と建設中の団地 昭和46年(1971)

今でも見られる高島秋帆の名残

ミニ企画展「高島平誕生ヒストリー」にあわせて、板橋区で見られる高島秋帆の名残をまとめてみました。

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今でも見られる高島秋帆の名残
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高島平の幼稚園・学校の園章・校章

他にも、高島平の一部の学校の校歌には「徳丸ヶ原」、「徳丸」、「秋帆」、「大筒」などの言葉が使われています。
高島平の歴史について知りたい方は、ぜひ、郷土資料館へお越しください。ご来館お待ちしております。

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板橋区立郷土資料館
〒175-0092 東京都板橋区赤塚5-35-25
電話:03-5998-0081 ファクス:03-5998-0083
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