板橋区産業振興情報 産業のあらまし
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板橋区産業振興情報 産業のあらまし
もくじ
- 板橋区の産業の概説
- 板橋区の工業の歴史(1) 草創期から終戦まで
- 板橋区の工業の歴史(2) 戦後 工業都市・板橋の発展
- 板橋区の工業の歴史(3) 公害、円高、低成長と都市型工業への転換
- 板橋区の工業の歴史(4) 低成長からデフレへ 区工業の直面する課題
年表『板橋区の産業 温故知新』(添付ファイルからダウンロードできます)
1.板橋区の産業の概説
板橋区は東京23区の北西部にあります。人口は約50万人(23区中7番目)、面積は32.17km2(23区中9番目)です。板橋区は江戸期から明治にかけては、大部分が農地や雑木林でしたが、中山道と川越街道という主要な幹線道路が通り、中山道には板橋宿、川越街道には上板橋という宿場が設けられ、江戸期の交通や物流に大きな役割を果たしていました。
その後、さらに環状六・七・八号線、首都高速五号線など、東京の大動脈となる道路が相次いで敷設され、高島平にはトラックターミナルが造成され、板橋区は物流の一大拠点ともなっています。
板橋区を特徴付ける代表的な産業といえるのが工業です。埼玉県の膝折(現:朝霞)を発祥とする伸銅業が、江戸時代から川越街道に沿って板橋区に伝わり、伝統的な地場産業となっていました。また、明治9年、加賀にできた火薬製造工場を起点に、板橋区は主に光学兵器などの軍需産業を目的とした一大工業集積が形成されました。平和産業に転換した戦後は、精密・光学機器や印刷関連産業をはじめとする工業集積が形成され、都内でも有数の工業のさかんな地域となっています。(次章以後に詳しく説明します。)
一方、中山道と川越街道の旧街道沿いには仲宿や大山、上板橋などの商店街が形成されました。現在の板橋区の商店街は、 主に東武東上線や地下鉄三田線の駅前等を中心に多数発達し、その数は百を超えています。ただ、区内に鉄道の乗り換えの起点となるターミナルがないため、商店街の規模は比較的小さい近隣型商店街となっています。
2.板橋区の工業の歴史(1) 草創期から終戦まで
板橋区の工業が草創期から太平洋戦争終結に至るまで大きく発達した理由を考えると、以下の特徴を挙げることができます。
- 東京近郊で未開発 当時の東京都心から近く、なおかつ広大な土地を有していた。
- 水運の便 荒川や新河岸川を使った、都心への水運があり便利だった。
- 水利 石神井川など、多くの小規模河川があり、水車などの水利に恵まれていた。また、崖線沿いには豊かな地下水がありきれいで豊富な水が手に入った。
- 工場導入の契機 幕末に幕府によって現在の加賀付近において火薬圧磨機が導入され、その後明治政府に召し上げられて官営の火薬工場となった(明治9年)。
- 帝都震災復興と工業地域指定 関東大震災以後、下町に比べて火災など震災の比較的小さかった板橋区の志村地区(板橋区東北部で現在の志村・前野町▽小豆沢・本蓮沼・舟渡などを含む一帯)が、工業甲種特別地域に指定され、危険物取扱工場や化学工場が移転してきた。(甲種地域は都内では他に江戸川区葛西のみ)
- 光学兵器工場の集積 戦乱の時代にあって、かねてより軍需工場としての特色を持っていた板橋区に、とりわけ光学兵器産業が急速に発達した。
上記のように、戦前の板橋区は、未開発の土地が多く、水利や地の利を活かして工業が発達していきました。その背景には震災以降の都市政策に負う所が大きく、その内容も主に“軍需”でした。その意味で、戦前の板橋区の工業集積は、政策的に形成された工業集積であったということもできます。
3.板橋区の工業の歴史(2) 戦後 工業都市・板橋の発展
戦後の板橋区は、都心に比べて比較的戦災の被害が小さく、戦時中に集積した工場の復興も早かったといわれています。そして1950年代、朝鮮戦争特需を経て大きく躍進することとなりました。
昭和40年代までの区の代表的な業種は戦前を受け継ぎ、関東大震災以後の工業甲種特別地域指定後にとりわけ集積した化学、伝統産業である伸銅をはじめとする非鉄、光学をはじめとする精密機械でした。その中でも光学は、軍需により戦時中に膨張した工場が解散・縮小したことにより、その技術者たちが戦後の板橋区内に数多くの工場を立ち上げ、板橋区の地場産業としての地位を築きました。昭和37、38年には板橋区から出荷される双眼鏡や単眼鏡などの光学・精密機器が、日本の主要精密機器輸出額の70%を占めるまでになりました。また、伸銅業も、戦後の需要増加に応じて大きく発達し、昭和25~6年には全国一の生産量を誇りました。
4.板橋区の工業の歴史(3) 公害、円高、低成長と都市型工業への転換
高度成長期に飛躍した板橋区の工業ですが、同時に急速な宅地化が進み、住工混在による公害問題が深刻になっていきました。
また、首都圏における工業の立地・操業等を規制する工業等規制法などの規制が強化され、土地の高騰や規模拡張ができないなど板橋区内での工場の操業環境は悪化の一途を辿りました。さらに追い討ちをかけるように円の切り上げ、さらにニクソンショック以後の国際市場の変動相場制への移行により、輸出を中心とする日本の製造部門は、より地価が安く、操業環境も保全しやすい地方への移転が進んでいくこととなりました。
環境問題や円高等の影響で重化学工業が後退する一方、情報産業の発達により、印刷業の需要が高まりました。印刷工場は迅速な処理を要することから地方への移転がしにくく、公害の問題は比較的小さいことから、従来都心に集中していた印刷工場が板橋などの近郊へ移転する動きになったと考えられます。板橋区には、戦前から凸版印刷東京工場があり元々集積度が高かったこと、従来印刷工場の集中していた千代田区や文京区とは中山道や首都高速道で直結されていたこと、広範囲に工業地域が温存されていたことなどから、昭和40年代から印刷関連工場が急速に増加しました。現在では工場数、従業員数、製造品出荷額共に区内最大業種となっています。
5.板橋区の工業の歴史(4) 低成長からデフレへ 区工業の直面する課題
1985年のプラザ合意で、円高の流れは決定的なものとなり、都内から地方へ、地方から海外へと、生産拠点の移転の流れが加速していきました。もはや板橋区内での量産品の製造は困難となり、都内での工場のありようは、少量多品種、あるいは試作品といった需要に絞られざるをえなくなっていきました。さらに1990年バブル崩壊により、日本は深刻で長期にわたるデフレに悩まされることとなります。
そのような状況下で、板橋区内では、印刷関連産業を中心とする都市型産業の増加等により昭和53年には工場数では5456ヶ所と、ピークを数えました(工業統計調査)。しかし、その後は一貫して減少の一途をたどり、平成15年の工業統計調査では2534と、ピーク時の半分以下にまで減少しました。
以上のように、板橋区はさまざまな変遷の歴史を経ながら、生活と産業の融合した、バランスの取れたまちとなっています。上記の工業統計調査結果でも、板橋区は東京都23区内で従業員・製造品出荷額が第2位、工場数第9位であり、全国でも有数の工業集積地域となっています。しかし、産業構造の急速な変化に対応できない事業者は厳しい状況に追い込まれており、将来に向けての地域産業のあり方が問われています。
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