学芸員のウラ話vol.2

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なんで板橋で樺太アイヌ展?

展示室の様子

こんにちは、コレクション展「樺太アイヌ-人類学者、樺太へ渡る-」の担当学芸員です。

コレクション展「樺太アイヌ-人類学者、樺太へ渡る-」は、4月以降の展覧会の予定にあわせて4月25日(日曜日)まで延長することになりました。つきましては3月30日(火曜日)から「続後期展」を開催いたします。

今回の展示では、日露戦争後に樺太調査を行った人類学者の石田収蔵の記録資料から当時の樺太について紹介しています。

ところで、なんで板橋区の郷土資料館で樺太アイヌの展示なのですか?と疑問を持たれる方もいるかもしれません。

石田は、明治12年(1879)に秋田県鹿角郡柴平村字柴内(現在の鹿角市十和田毛馬内)に生まれました(その後、父親が亡くなった際に青森の八戸村鳥谷部に移住)。

石田は東京帝国大学へ進学し動物学を学び、大学院へ進学した後人類学に関わるようになりました。人類学を学んだ後、国内国外の様々な土地の調査だけでなく、樺太にも明治40年(1907)、明治42年(1909)、大正元年(1912)、大正6年(1917)、昭和14年(1939)の計5回調査を行い、北方諸民族について研究しました。

石田と板橋区の関わりを紐解くと、大正6年に現在の上板橋で発掘調査を行っていたことがわかります。

 

大正9年になると赤塚村徳丸中尾(現在の東武練馬駅のイオンから東のあたり)の土地を一部買い、昭和15年の亡くなる日まで徳丸の地に住み続けました(このとき、徳丸の風景写真を撮影しています)。


かつての徳丸
大正から昭和初期くらいに撮影された徳丸の写真(現在の徳丸1丁目付近から西台1・2丁目を望む)
大根
大正から昭和初期くらいの徳丸周辺です。大根が干されています。

当館に石田の資料が寄贈されたのは平成5年(1993)ごろのこと。関係者の方からご相談があり、かつて住んでいた板橋に所在する板橋区立郷土資料館へ石田の資料が寄贈されることになりました。

平成10年(2000)、資料整理や追跡調査が完了し特別展「石田収蔵 謎の人類学者の生涯と板橋」が開催されました。この特別展の年は、石田の没後60年でした。また、今回の樺太アイヌ展の開催年である令和2年(2020)は石田の没後80年目でもあり、何かのご縁なのかもしれません。

 

 

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このページに関するお問い合わせ

板橋区立郷土資料館
〒175-0092 東京都板橋区赤塚5-35-25
電話:03-5998-0081 ファクス:03-5998-0083
教育委員会事務局 生涯学習課へのお問い合わせや相談は専用フォームをご利用ください。