木下出世稲荷〈有形民俗文化財(信仰)〉

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ページ番号1038311  更新日 2024年3月28日

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木下出世稲荷

(きのしたしゅっせいなり)

 智清寺の境内にある社に祭られている稲荷で、木下稲荷(きのしたいなり)または藤吉稲荷(とうきちいなり)などとも呼ばれている。安永2年(1773)成稿の『江戸図説』(えどずせつ)以降、『四神地名録』(ししんちめいろく)など、江戸時代に広く庶民に親しまれた複数の地誌に記されている。また、安政5年(1858)の『五海道中細見記』(ごかいどうちゅうさいけんき)には、板橋宿周辺の名所として「藤吉いなり」が描かれている。
現在の稲荷社前に縁起を記した石碑があり、その記述によると、元和3年(1617)に智清寺の当時の住職によって、境内に稲荷社が建てられたという。その神像は豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時分から信仰していたものとされ、一説には大坂城落城後、大坂籠城の浪人である高松半平という人物によって智清寺にもたらされたとされる。神像が秀吉ゆかりの稲荷でありその後、立身出世を遂げたことから、木下藤吉稲荷、また木下出世稲荷などと称されるようになったという。
 豊臣秀吉ゆかりの寺社は日本全国に多数あるが、木下藤吉郎の名を冠したものは極めて稀であり、またその仲介者として、高松半平なる人物が登場するものは他に類例がない。
大坂の陣以降、江戸時代を通じて、豊臣秀吉を祭神とする寺社は公式には認められないが、一方で18世紀以降、出版物などによる太閤記物の流行や、京都・大坂など上方における秀吉ゆかりの寺社での開帳などによって、上方を中心に、秀吉を現世利益の神とする庶民信仰の高まりが知られている。同時期に江戸で流行した稲荷信仰に、上方の庶民信仰が結びついたかのような伝承が当地に残っているのは、中山道の一番目の宿であり、いわば江戸の入口である板橋宿の地域性によるものではないかと考えられる。
 木下出世稲荷大明神の社には、2躯のダニキ天像が安置されている。いずれも近世の作であるが、一木造で素朴な本尊に比べ、前立仏は本体に玉眼や彩色が施され、狐は金箔で仕上げられている。江戸時代から一般の参詣が行われていたことを裏付けるとともに、名所としての賑わいが推測される。当稲荷社は板橋宿を代表する祈りの場であり、江戸時代以来の庶民の信仰を伝える貴重な資料である。

所在地

大和町37-1(智清寺境内)

登録日

令和4年3月8日

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