<クイズ>板橋を知る

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ページ番号1010118  更新日 2020年1月25日

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<クイズ>板橋を知る

板橋区公文書館ではツイッターによる情報提供を始めました。ツイッターでは公文書館の主催イベント情報、新着資料のご案内、「いたばしを知る」ための豆知識やクイズなどを発信していきます。
ツイッターで出題したクイズの答えはこちらのホームページに掲載していきます。

問題@8:板橋区と埼玉県戸田市を結ぶ戸田橋。昭和39年(1964)に東京オリンピックの聖火ランナーが通った橋としても知られています。さて、荒川に初めて戸田橋が架橋されたのはいつでしょうか?

答え@8: 明治8年(1875)5月26日です。

現在の戸田橋は四代目ですが、初代から数えれば今年でちょうど140年ということになります。戸田橋の歴史を振り返ってみましょう。
初代:
江戸時代、中山道の板橋宿と蕨宿の間は渡し船が利用されていました。しかし、明治維新の後、明治6年(1873)に東京府や埼玉県に架橋の出願が相次ぎます。東京府へは下谷在住の「元木匠職人」市川代次郎が鉄製の吊橋案を出願、埼玉県へは「鳥取県貫属士族」堀正と「天野伴蔵支配人」天野伴次郎両名による木橋案などが出されました。東京府と埼玉県はそれぞれ市川案と堀・天野案を採用して折衝しましたが、内務省は埼玉県の堀・天野による木橋案を採用しました。戸田橋の工事は曲折を経て完成、明治8年(1875)5月26日に「渡り初め」が行われます。戸田橋は人・車・馬などから渡橋料を収納し、工事費や負債の償却に充てました。渡橋料徴収は当初の予定通りにいかず、徴収期間は延長されましたが、明治31年(1898)に無償になりました。

二代目:【写真1】
大正元年(1912)には木造土橋が完成。関東大震災で陥没したものの、応急修理が行われ、避難民の道として機能しました。【写真1】の手前が二代目、奥が三代目です。

三代目:【写真1】【写真2】【写真3】
昭和7年(1932)12月24日に鉄橋として竣工したのが、三代目です。著名な橋梁技術者・増田淳の設計によるものです。完成当時、そのモダンなデザインが話題になりました。東京オリンピックで聖火ランナーが渡っているのは、この三代目戸田橋です。同橋は、その上流側に造られた四代目が昭和53年(1978)に竣工するとともにその役目を終えました。三代目戸田橋の親柱は、板橋側のものは小豆沢公園入口に、戸田側のものは戸田橋親水公園に現在も残されています。

四代目:【写真4】
現在の戸田橋は四代目です。昭和53年(1978)8月に竣工しました。戸田橋は東京・板橋と埼玉・戸田をつなぐ交通路として重要な機能を担い続けています。また、夏に行われる「いたばし花火大会」は現在、その名が冠された、対岸の「戸田橋花火大会」と同時開催されています。

戸田橋については、『戸田市史』通史編下巻(昭和62年(1987))に詳しく記されています。また、その後に刊行された『板橋区史』通史編下巻(平成11年(1999))にも記載されています。
板橋区公文書館では、昔の戸田橋の写真もご覧頂けます。是非ご利用ください。

写真1
【写真1】二代目と三代目
写真2
【写真2】三代目戸田橋

写真3
【写真3】戸田橋と東京五輪聖火ランナー
写真4
【写真4】四代目戸田橋

【過去の問題と答えは下記の添付ファイルをご覧ください。】
<最新>

問題@9:昭和6年(1931)7月10日、板橋に、東京の公立小学校初の女性校長が誕生しました。何という名前の人でしょうか?また、赴任した学校名は何でしょうか?

答え@9: 木内キヤウ(読み方は「きうちきょう」)です。志村第一尋常小学校(現在の志村第一小学校)に校長として赴任しました。

木内キヤウは明治17年(1884)に、井原西鶴の研究や玩具収集などで知られる淡島寒月の長女として生まれ、明治36年(1903)から東京府の小学校教員として勤務、自らの経験を通じて、女性の地位向上に取り組みました。全国小学校連合女教員会で幹事などを務め、昭和3年(1928)には同会の代表として汎太平洋婦人会議にも参加しました。戦時中には多くの女性運動指導者と同じように、女性の社会進出を目指しながら、銃後の戦時動員に積極的に携わりました。戦後は参議院議員になっています。
さて、昭和6年(1931)7月10日、木内は、昭和4年(1929)9月に開校したばかりの志村第一尋常小学校の二代目校長に任命されます。当時、町村立学校の教員は地方官、すなわち東京府の場合は東京府知事が任命しました。木内は自伝の中で、校長就任要請を受けた時のことを振り返って、以下のように、当時の心情を記しています。

私はその場で、その重大な任務を引受けてしまった。「こんどこそ、どんなことがあっても頑張らなくてはならない。」小山視学をはじめ、羽生学務部長、牛塚知事の英断に対してどうしてもこたえねばならぬのであった。

「牛塚知事」とは当時の牛塚虎太郎東京府知事を指しています。さらに木内は次のように続けます。

いよいよ校長になれたかと思うと、今更のように責任の重大さが襲って来る。自分がもし失敗したらせっかく開かれた道が、あるいは永遠に塞がれてしまうであろう。一旦引受ける以上は、一死を以て当らねばならぬ、そう思うと自ら全身が引きしまる思いがした。

東京でようやく開かれた女性の公立小学校長の道が、自らの成否にかかっているとの責任感が伝わってきます。その背景には、女性の社会進出・地位向上を目指す木内の思いがありました。木内は昭和16年(1941)7月31日まで、10年にわたって同校の校長を務めました。
また、志村の人々も木内を支えました。木内はやはり自伝の中で、志村の有力者・小川美明を恩人のひとりとして挙げています。なお、映画『男はつらいよ』の寅さん役で有名な渥美清は、3年生から卒業まで木内校長のもと志村第一尋常小学校で学んでいます。
ちなみに、東京以外では、宮崎県の鳥原ツルが大正9年(1920)に25歳の若さで古城尋常小学校の校長になっています。また、岡山県では、昭和2年(1927)に山上峯が三坂尋常小学校長に就きました。

志村第一尋常小学校は、木内が退職する直前の昭和16年(1941)4月に志村第一国民学校に、戦後の昭和22年(1947)4月に志村第一小学校になりました。【写真1】は尋常小学校時代の職員と来賓の集合写真です。前列真ん中が木内です。【写真2】は昭和19年(1944)8月に始まった群馬県新治村への学童疎開の様子、【写真3】は戦後の志村第一小学校の校舎です。

【参考文献】
木内キヤウ『教育一路』(改訂版。学芸図書出版社、1953年。初版は1941年)
復刻版は、木内キヤウ『教育一路/汎太平洋婦人会議に列して』(大空社、1989年)

写真5
【写真1】木内キヤウ(前列真ん中)
写真6
【写真2】志村第一国民学校の学童疎開

写真7
【写真3】志村第一小学校の校舎

【過去の問題と答えは下記の添付ファイルをご覧ください。】

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