東光寺のご案内

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ページ番号1004871  更新日 2025年10月10日

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写真1
東光寺

室町時代の創建と伝わる浄土宗寺院です。

境内には、青面金剛のみごとな彫刻がほどこされた寛文2年(1662)の庚申塔があります。

また、江戸時代に中山道と川越街道の分かれ道「平尾追分(ひらおおいわけ)」(追分は分かれ道のこと)にあったと伝わる石造の地蔵菩薩座像は全高約3m。

明治時代になって板橋に移り住んだ子孫が建てた戦国時代の武将宇喜多秀家の供養塔もあります。

所在地

板橋区板橋4-13-8

交通

都営三田線「新板橋駅」徒歩8分
東武東上線「下板橋駅」徒歩9分

所蔵文化財

宇喜多秀家供養塔

板橋区登録有形文化財(歴史資料) 平成11年3月10日登録
宇喜多秀家は、備前岡山の大名で、豊臣秀吉の信任が篤く、五大老にも任命されました。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、西軍の大将として東軍と戦いましたが、敗れて八丈島へ流罪となり、罪を許されることなく明暦元年(1655)に83歳で亡くなりました。
明治5年(1872)11月、明治政府から罪を許された秀家の子孫は、秀家の妻が前田利家の娘であった縁により、前田家から約2万坪の土地と当面の生活費を与えられて、旧加賀藩下屋敷跡に入植しました。秀家の供養塔は、この時に建立されたと考えられます。
当初は、現在の板橋四丁目1番あたりに祀られていましたが、その後場所を点々と変え、昭和33年に一族の菩提寺である東光寺の境内に移設されました。
供養塔は小松石製で、「秀家卿」の文字が隷書(れいしょ)で彫られていることや、両脇の梵字が本式の薬研彫(やげんぼり)で彫られているなど、腕の良い職人によって造られたことがうかがえます。

写真2
宇喜多秀家供養塔

東光寺寛文二年庚申塔

東光寺庚申塔
東光寺寛文二年庚申塔 寛文2年(1662)

庚申塔(こうしんとう)とは、60日に一度の庚申の日に行う徹夜行事「庚申待(こうしんまち)」をくり返し達成した記念碑です。
健康長寿・病魔退散への祈りがこめられています。
中央に刻まれているのが、本尊の青面金剛(しょうめんこんごう)(鬼神、邪鬼を踏む姿)。ほかに夜叉・童子・猿・鶏など庚申信仰にまつわる鬼神や動物が刻まれています。
当時の東光寺住職が協力し、このお寺を心の拠り所としていた人々がお金を出し合って、寛文2年(1662)に建てました。

東光寺石造地蔵菩薩坐像及び台座

東光寺の地蔵菩薩坐像
東光寺石造地蔵菩薩坐像及び台座

江戸時代、「平尾追分(ひらおおいわけ)」(今の板橋郵便局前交差点付近)にあったと伝わっています。
そのため「追分地蔵」ともよばれていました。

造立の経緯が台座に刻まれており、東光寺第14代住職豊誉上人が導き、板橋宿や加賀藩下屋敷の人々が、亡くなった家族の供養のためにお金を出し合って造立しました。

大正13年(1924)刊行『板橋町誌』によると、刊行当時には東光寺に移されていたようです。
その後、戦後の区画整理を経て、境内の現在の位置に安置されました。

お地蔵様といえば立っている姿はよく目にしますが、東光寺のお地蔵様は座っている珍しい姿です。
先祖供養、道中安全や村の堺目を守る存在として、板橋宿や旅人たちに大切にされてきました。

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教育委員会事務局 生涯学習課 文化財係
〒173-8501 東京都板橋区板橋二丁目66番1号
電話:03-3579-2636 ファクス:03-3579-2635
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