コラム「史跡公園実験室」第5回 昭和20年代のものだった!机をめぐる物語

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ページ番号1049925  更新日 2023年12月20日

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ある机の来歴

史跡に残る机(7号室)

 国史跡「陸軍板橋火薬製造所跡」のうち、戦後、理化学研究所が使用していた建物に、机や書棚などの什器が残されています。平成27年に理研がこの地から引っ越す際、古そうな什器は残置してもらったものです。

 一部の机には「EX」から始まる管理番号と思しきペンキ書きが残り、書棚の天板には配架されていたであろう研究雑誌のコーナー表示がそのまま残るなど、当時の様子を想像することができます。しかし、これらがいつか使われていた物なのか、わかっていませんでした。

 近年、区が進める調査によって、少なくとも4脚の机は、理研板橋分所ができた昭和20年代に使われていたものであることが明らかになりました。

当時の研究者の日記

史跡に残る机(5号室)

 きっかけは理研の研究者、和田雅美が残した日記です。理研板橋分所宇宙線研究室に在籍し、主任研究員も務めた彼は、約40年間にわたって研究日記をつけており、現在は母校である自由学園に寄贈されています。

 理研板橋分所を知る貴重な歴史資料であることから、自由学園の協力のもと、区の学芸員は日記の分析調査を行っています。

 すると1948年11月の記事で、研究室内にある什器に「EXマーク」を記入するという記事がありました。

 「これは今残っている机に書かれた管理番号では?」

 ドキリとしながらも、この疑問を解決するために、学芸員は「EXマーク」の秘密を調べることにしました。

占領期にGHQから指令された文書

EXマーク

 調査を進めると、GHQが「EXマーク」に関して、重要な指令を出していたことが明らかになりました。

 戦後、旧板橋火薬製造所の跡地は、GHQの賠償指定工場となって自由な利用が制限されました。一方で、戦時中の空襲被害などで行き場を失った民間の工場、学校、研究所などの団体が、GHQへ利用希望を出し、認められた団体がその跡地を利用しました。理研板橋分所も昭和21年、申請が認められて、現在の史跡指定地の一画に入居することになります。

 こうした経緯から、昭和23年10月GHQは賠償指定工場へ入居した全ての団体に対して、それぞれが持ち込んだ資材、什器には「EX」から始まる番号を記入することを求めました(註)。これが和田の日記に記され、そして現在史跡に残る「EXマーク」の机4脚だったのです。

(註)この指令は、1948年10月28日「SCAPIN-1938」 (文書名:Supreme Commander for the Allied Powers Directives to the Japanese Government (SCAPINs) = 対日指令集)」 で、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができます。

 つまり、この4脚の机は、少なくともこの指令が出された占領期の時点で、理研が板橋で使用していたことを表しています。

 さらに別史料から、理研が板橋へ引っ越してくる際、戦前から研究室があった駒込から什器や研究機材を持ち込んでいることがわかっています。その持ち込み機材にこれら4脚の机が含まれるかどうかはわかりませんが、戦前から占領期にかけて宇宙線研究室が利用し続け、研究室の移転とともに板橋へ移動された可能性も見えてくるのです。

 また机には「EX39-54-3114」というように、数字も記載されています。そのうち「39」は関東軍政部、「54」は旧板橋火薬製造所を表す番号だということもわかりました。なお、現在、加賀地域で活動する「加賀五四自治会」の「54」も、これに由来します。

 来歴がわかった机は、現在も国史跡「陸軍板橋火薬製造所跡」の建物の中で、大切に保存されています。

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