「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」と渋沢栄一

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ページ番号1031405  更新日 2021年2月18日

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「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」と渋沢栄一

板橋区登録有形文化財「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」(全景)
板橋区登録有形文化財「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」

「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」(板橋区登録有形文化財(歴史資料))

高島秋帆は、長崎出島の町年寄であり、また、オランダ式の砲術を導入して諸藩の藩士にそれを伝授した西洋砲術家です。高島秋帆は、天保11年(1840)のアヘン戦争の勃発を契機に、幕府に対して、戦争への防御のあり方と洋兵砲術の採用を建議し、翌12年、幕府の御用地である徳丸ヶ原(現在の高島平一帯)において洋式調練を披露したことで知られています。
 明治16年(1883)以降になると、高島秋帆の門人を中心に、その年譜や伝記がまとめられ、同18年には上野修禅院に「火技中興洋兵開祖」の碑が建立されています。
 当紀功碑は、高島秋帆の遺徳を顕彰する一連の動きにともない、東京兵器本廠長などを歴任した押上森蔵を発起人総代として、大正11年(1922)12月に建立されたものです。渋沢栄一も当紀功碑の建立に賛同し、金二百円を寄付したことがわかっています。また、竣工の際には、記念式典が行われ、渋沢も式典に招待されていましたが、急用のために参列できなかったようです。このやりとりは、松月院にある史料に、渋沢から発起人の押上に不参の電報を送ったとする記録が残されていることからもうかがえます。なお、碑が建立された場所は、高島秋帆が徳丸ヶ原の調練時に本陣とした松月院境内です。
 「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」は、幕府御用地である徳丸ヶ原の歴史と、徳丸ヶ原での高島秋帆によるオランダ式三兵戦術(歩兵・騎兵・砲兵)披露という事績を示す資料であるとともに、同年に東京第二陸軍造兵廠板橋火薬製造所に建立された圧磨機圧輪記念碑と同様に、日本の近代化をすすめた遺産として重要なものです。
 なお、高島秋帆の事績が高島平の地名の起こりとして広く認知されている点も登録理由となるものです。

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