電子展示室71号「いたばし農業の変遷」

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ページ番号1009236  更新日 2020年1月25日

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こうぶんしょ館電子展示室71号

「いたばし農業の変遷」

現在の都市化した板橋区の姿からは、板橋で農業が盛んだったことなんて、想像すらできないかもしれません。しかし板橋はかつて、ひじょうに農業の盛んな地域でした。今回の電子展示室では農業が盛んだった板橋の姿を、館所蔵の写真や資料を用いて振り返っていきます。

1.大正期

当時、板橋(板橋町、上板橋村、志村、赤塚村の4ヶ町村)は北豊島郡の一部で、東京市に隣接する近郊都市として発展を進めていました。
大正7年(1918)に刊行した『北豊島郡誌』には、これらの地域の特徴が次のように記されています。

  • 志村
    • 東京市の北西3里(約12Km)圏内に位置しており、帝都の一部に組み込まれつつあった。
    • しかしまだ当時の産業の中心は農業。土地の8割強は耕地であり、人口の4割強は農業に従事していた。
    • 生産していたものは米や麦などの主要作物よりも、大消費地である東京市から近いというメリットを活かして、蔬菜類(野菜のこと)が中心だった。
  • 板橋町
    • 「高燥にして住居に佳く、農業に良い」土地柄であり、住宅地と農村とが混在していた。
  • 上板橋村・赤塚村
    • 住民のほとんどが農業に従事していた。
    • 「都内の大村」ともよばれた赤塚村では、北に水田が、南に畑がひろがる風景がみられた。
    • しかし赤塚村でも、「近来蔬菜の栽培盛にして」とあるように、野菜の生産にも力を入れるようになっていた。

このように板橋では、大正期を境に、生産の中心が米や麦から野菜へと変化し、「都会付属の菜園」になっていきました。資本主義経済が農村にも及ぶなか、野菜の生産による現金収入の獲得は、農家にとって重要なことでした。
こうした野菜のなかでも、特にその生産が盛んだったのが大根です。練馬と共に沢庵漬けの主産地であった板橋では、大根や干し大根の生産が盛んでした。

2.昭和初期

大正の終わりから昭和にかけて、板橋の農業は、農地面積も農業従事者も減少します。その背景にあるのは大正12年(1923)の関東大震災です。
東京市や横浜方面に大規模な被害をもたらした関東大震災ですが、板橋はさほど大きな被害は受けていません。『大正震災誌』によれば、板橋町の被害は全壊26戸、半壊37戸、全焼1戸、重傷2名、軽傷3名です。
このように被害が比較的軽微だった板橋に、震災後、都心部から多くの人々が流入してきます。こうした人たちの住居を提供するために、田畑を宅地に転換する農家が増えた結果、農地も従事者も減少していったのです。
さらに震災以降、工場も多く板橋に進出します。そして同時に、工場からの排水により農作物が被害を受けるケースも頻出するようになります。昭和10年(1935)発行の『東京市域内農家の生活様式-東京市農業に関する調査1』には、志村の事例が紹介されています。
「志村(坂上)では、『オリエンタル酵母会社(註:日本最初の製パン用イースト製造会社)の悪水排出により約五町歩は収穫皆無に陥り、其他の水田も可なりの減収を来した。(後略)』と言ふのを耳にした。(中略)同様の被害は成増の工業地域にも聞かれた。(中略)工場地域の付近の水田は北部の志村・袋町・成増の如きは労働者、家内工業者、それ等に付随する小商店等の居住地域と化している。」
このように板橋の農家は、工場の進出による農作物への被害と、工業従事者の増加による農地の宅地化とを、同時に経験しています。さらに工業用水の大規模なくみ上げによる地下水の低下という問題もありました。この工業化の進展も、板橋の農業を衰退させる原因の1つだったのです。
こうしたなかで、より「高等」な農業とされていた養豚や酪農に挑戦する農業者たちがでてきます。昭和6年(1931)には、北豊島養豚組合が設立しています。設立当時、40人の加入者がありました。
養豚は、悪臭や伝染病の問題から、東京市15区内での営業が禁止されていました。その反面、豚を育てるためのエサは残飯であり、その残飯は東京市から入手していました。そして育てた豚は、主に東京市内の都市住民によって消費されました。
このように養豚は都市と密接な関係があり、都心部に近い板橋は、養豚に適した条件がそろっていたといえます。
また酪農は板橋町、上板橋村を中心に昭和初期から発達していきます。酪農自体は大正時代からなされていましたが、巣鴨や戸田市などを転々としていた吉川牧場が昭和3年(1928)ごろ上板橋に移転してきたのを機に、大きく発展していきます。
殺菌技術が未発達であったこの時代、都心部に牛乳を提供するためには、都市近郊で搾乳する必要がありました。それゆえ酪農は、板橋のなかでもより都心部に近い板橋町、上板橋村で盛んだったのです。

3.戦後から昭和40年代まで

戦中から続く食糧不足がますます深刻化するなか、戦後の板橋農業は食糧増産、および供出という国家的な要請のもとで復興をはじめます。「昭和21年8月 板橋区役所事務概要」(『板橋区史 資料編4』91)には、「終戦後は食糧危機の声に刺激せられ寸土と雖も開墾せられ利用坪数はさらに増加しつつあり」との記録が残されています。

このように板橋の農業は、都民の空腹を満たすべく、急ぎ足で復興していきました。
そして同時に、占領軍による民主化政策が、板橋の農業者にも大きく影響をおよぼします。特に昭和21年(1946)10月に公布された自作農創設特別措置法により、地主から土地を借りて耕作していた小作人は、所有に応じた土地を年賦で購入することで自作農化しました。板橋区では、昭和20年の時点では小作地率が56.3%でしたが、昭和25年には19.4%までに減少しています。
なお、昭和24年(1949)の秋から、赤塚の松月院と上板橋の安養院(後に徳丸の安楽寺)で、稲の刈り入れ時期である10月と、田植え時期である6月に、臨時の農繁期保育所が設置され、100人前後の子どもたちが通うようになります。ベビーブームと重なっていたとはいえ、この時期は稲作が盛んになされていたことをうかがわせる事柄だといえるでしょう。
しかしこの頃から、少しずつ農業は衰退し始めます。その大きな理由は宅地化です。宅地化の流れは、農業の盛んな赤塚・徳丸地域においても進んでいきます。
志村や荒川沿いの工場による大量の地下水使用によって地下水の枯渇や地盤沈下がおき、さらに工場から排出される汚水、住宅地から排出される生活排水による水質悪化になやまされるなど、赤塚・徳丸地域の農業は、工業化や宅地化の進展によって大きな打撃をうけていました。さらに昭和30年(1955)からは干ばつが3年つづき、昭和33年の狩野川台風では収穫後の稲束が流出したり収穫直前の稲が冠水したりと大損害を被ります。
こうしたなか、昭和36年頃から、日本住宅公団による公団団地建設の話が赤塚・徳丸田んぼの農民に伝わってくるようになります。現在の高島平団地の建設計画です。発展の見込みの薄い農業を辞めたいという気持ちと、先祖伝来の土地への執着とがせめぎ合うなか、昭和38年(1963)には51万坪の田んぼの売却がなされ、44年に着工、47年1月には最初の住民が入居しはじめます。
こうして板橋では、米の栽培はまったくなされないようになりました。もっとも畑地については、高台を中心にまだ残っており、キャベツ、大根、ニンジン、馬鈴薯、甘藷、ホウレン草、小松菜、カリフラワー、ネギなどの野菜類、サツキ、ツツジなどの植木類、梅、柿、栗、ブドウ、梨などの果樹類、温室でのシクラメン栽培など、より専門化した、商品価値の高い作物を生産していました。

4.現在の「板橋の農業」

板橋区農業委員会が毎年作成している『板橋区農業経営実態調査報告書』平成23年度版によれば、板橋区の農家の戸数は、平成23年8月1日現在176戸となっています。農業従事者は331名で、そのうち6割強が60歳以上です。
耕作地の面積は2,499.52アールです。作付面積がもっとも広いのは大根(223.3アール)で、じゃがいも、苗木、ブロッコリー、さつまいもと続きます。花卉類の栽培もなされており、サイネリアやシクラメンが温室で栽培されています。
販売額をみてみると、500万円以上の販売額がある農家は2戸だけで、半分以上は50万円未満の収入しかありません。
農地が多いのは徳丸・赤塚地区で、この2地区だけで全体の半分以上を占めています。農家戸数もこの2地区だけでやはり半分以上を占めています。
このように規模は小さくなりましたが、今でも「板橋の農業」は続いています。こうしたなかで近年注目されるのが区民農園です。区民農園は、区が板橋区内の農地を借り、その土地を区民に1区画(約15平方メートル)年間5000円で家庭菜園として貸し出すというもので、この制度は多くの区民の方々に利用され、大変人気のある事業となっています。

※今回の電子展示室の内容は、本年度の公文書館体験ツアー「公文書活用術」(担当:熊本博之先生(明星大学))でお話しいただいた内容を、新たにまとめなおしたものです。
※板橋区公文書館には、板橋区に関する各種資料が所蔵されています。皆さまのご来館をお待ちしております。

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