こうぶんしょ館電子展示室64号「いたばしと農業」

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ページ番号1009243  更新日 2020年1月25日

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こうぶんしょ館電子展示室64号

「いたばしと農業」

板橋地域で米作りがはじまったのは弥生時代(1世紀前後頃)のことといわれます。それは区内各所から発見された遺跡などからもうかがい知ることができます。
かつて板橋は、葛飾、足立とともに、東京屈指の穀倉地帯であり、現在では高層住宅が建ち並ぶ高島平地区も、昭和30年代までは見渡す限りの広々とした水田でした。
また板橋では、野菜づくりも盛んでした。明治のころまでは、畑作は麦や雑穀が中心で、野菜は自分たちで食べる分くらいしか作っていませんでした。しかし、第一次世界大戦によって日本経済が飛躍的に発展し、東京市の人口が急増するなか、都市部に近い板橋では、その立地条件を活かして、大根やニンジン、ゴボウなどの野菜をたくさん栽培し、都市部の人たちの食卓に新鮮な野菜を届けるようになったのです。
今では住宅地の広がる板橋ですが、このように少し前までは農業の大変盛んな地域でした。皆様には、この電子展示室を通して、なつかしい板橋の農耕風景を見ていただき、在りし日の板橋の姿を感じ取っていただければ幸いです。

稲穂が実るまち 徳丸・赤塚の田園風景

板橋は昔から、稲作と畑作の盛んな地域でした。荒川や石神井川などの流域の氾濫地帯を利用して始まった米づくりは、江戸から明治、大正、昭和にいたるまで長く続けられており、葛飾、足立とともに、東京府内屈指の米どころとして知られていました。高島平地区には昭和30年代まで見わたす限りの水田が広がっていましたので、記憶にある方もいるでしょう。また武蔵野台地の肥沃な土地を活用した野菜づくりも、有名な大根をはじめ、ニンジン、ゴボウなどを中心に営まれてきました。
明治のころの板橋は、練馬、荒川、北、豊島の各区とともに北豊島郡に属していました。この北豊島郡の明治42年における町村別米収穫高をみてみると、1位が赤塚村、2位が志村となっており、板橋が北豊島郡の中心的な稲作地域であったことがわかります。赤塚村、志村ではうるち米ともち米の作付けが多く、一方で板橋町、上板橋村では陸稲の作付けが盛んでした。

写真1
徳丸田んぼ 丘陵からの風景(昭和39年)
写真2
親子で稲刈り(昭和20年代)

写真5
赤塚田んぼの稲刈り(昭和41年)
写真6
たわわに実る米(昭和38年)

写真7
たんぼの害虫駆除(昭和29年)
写真8
徳丸から高島平を望む(大正10年頃)

大地に深く根をおろし 名産 大根の風景

畑作も明治のころから広くなされていました。麦や雑穀のほか、野菜づくりが盛んで、明治41年の調査では、上板橋村が作付面積、収穫金額ともに最多で、志村、板橋町がこれに続いています。しかし昭和になると、板橋町では畑地も水田も半減します。これにかわって畑地が増えたのが志村・赤塚地区です。赤塚地区では畑地が約200町歩(約60万坪)も増えており、また志村地区では大根の作付面積が190町歩を超えています。第一次世界大戦によって日本経済が飛躍的な発展をみせ、東京市の人口が急増するなか、都市部に近い板橋は、新鮮な野菜をその日のうちに市場に輸送できる恵まれた立地条件を活かして、雑穀を栽培していた畑で換金作物の野菜を育てるようになったのです。

写真3
だいこん収穫(昭和41年)
写真4
だいこん畑 大正時代の徳丸

絵画
江戸名所図会に描かれただいこんの図

※公文書館には今回紹介した資料の他にも、多くの興味深い資料があります。是非、ご来館の上ご活用ください。

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