こうぶんしょ館電子展示室52号「いたばしの『加賀』」

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ページ番号1009255  更新日 2020年1月25日

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写真1
ことじ灯籠似のオブジェ(本年撮影)

こうぶんしょ館電子展示室52号
公文書館所蔵資料から見た

「いたばしの『加賀』」

公文書館では、年2回、板橋区役所本庁舎B1Fにて、板橋区のまちの移り変わりなどを写真、公文書館収蔵の資料を中心に紹介する「地下展示」というミニイベントを開催しています。
今回の電子展示室は、平成20年7月に友好交流都市協定締結を記念しておこなった地下展示、「いたばしの『加賀』」の中から、板橋区公文書館に所蔵されている資料の数点紹介をしながら、加賀藩下屋敷とはなど、また現代の板橋のまちに残る「加賀」を集め、紹介していきたいと思います。
本ページを通して、「板橋」と「加賀」との「つながり」を肌で感じていただければ幸いです。

いたばしと加賀

長年の文化交流を経て、2008年7月9日に本区と友好交流都市協定を締結した石川県金沢市。その交流のきっかけとなったのは、本区内にあった加賀藩前田家の広大な下屋敷の存在です。
当時「平尾」と呼ばれていた地域にあったこの下屋敷は、主に別荘として使われていました。その広大な敷地の中には、大池や築山が配されており、鷹狩や園遊会が催されたほか、中山道板橋宿に面していたことから、前田家当主が参勤交代の休息場としたり、江戸に入る際の装束替えの場として利用されていたといいます。
またこの地域には、現在も加賀公園をはじめ、金沢小学校、加賀中学校、加賀1、2丁目など、前田家にちなんだ地名、施設名が数多く見られ、面白いものとしては石神井川ぞいの遊歩道に、金沢市の兼六園内にある名物「徽軫灯籠」の型を写したオブジェまで建てられています。
このような環境の影響か、区民の皆さんの加賀、金沢に対する関心も大変高く、2007年11月23日、金沢・富山県西部広域観光推進協議会が主催し、板橋区で開催された「加賀藩学講座」には、定員の40人を大きく上回る196人の方々が応募されたほどです。
※徽軫灯籠(ことじとうろう)
金沢市にある国内を代表する大名庭園、兼六園を代表する景観で、霞ヶ池と呼ばれる大池の北岸に配された灯籠。徽軫灯籠とは足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。

写真2
下屋敷御林大綱之絵図(原本玉川図書館蔵)
写真3
加賀藩下屋敷之現況(平成4年撮影)

前田家下屋敷とは

加賀藩前田家の下屋敷は、前田家五代前田綱紀(つなのり)が、延宝7年(1679)、江戸幕府より板橋平尾の地に6万坪の土地を拝領したことに始まり、最終的には、21万坪余の敷地を有するまで拡大しました。
これは、江戸にあった大名屋敷地の中でも最大の広さを誇りました。広大な敷地の中には、大池や築山(大山)が配され、鷹狩や園遊会が催されたほか、中山道板橋宿に面していたことから、前田家当主が参勤交代の休息場、また江戸に入る際の装束を着替える場として利用していたといいます。
このような状況は明治初年まで続き、その後は、石神井川の水力を利用できたことから陸軍関係の工場などに転用され、戦後には学校用地等となっております。
現在では、加賀1、2丁目と板橋3、4丁目を含む地域にあたり、同地域には、加賀公園や金沢小学校、加賀中学校などといった、前田家ゆかりの名前を冠する施設も多く見られます。

写真4
下屋敷「御成橋」の現在(本年撮影)
写真5
下屋敷「大山」の現在(本年撮影)

写真6
下屋敷内を流れた石神井川(本年撮影)

加賀藩とは

加賀藩は、江戸時代に加賀国、能登国、越中国の三ヶ国(現石川県、富山県の一部)を支配した大藩で、外様の国持大名である前田家を藩主としていました。前田家は金沢城を居城とし、石高は諸大名のなかでも最高となる102万5千石を誇っていました。これが「加賀百万石」と呼ばれるゆえんです。
明治2年(1869)の版籍奉還後には藩名が金沢藩と定められ、明治4年の廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県、大聖寺県と合併して石川県を構成します。さらに明治16年、旧越中4郡が分かれて富山県が設置されたことにより、現在の石川県の領域が確定しました。

加賀藩前田家とは

尾張国愛知郡(現名古屋市中川区)の土豪であった前田利昌の四男・利家は、織田信長に仕えその戦功によって大名になりました。豊臣秀吉が統一事業を進めると、利家は、豊臣政権において五大老の筆頭となり、加賀国を与えられました。
その子の利長は、秀吉の没後、家康の暗殺を企んでいるなどの疑いをかけられますが、利長の母(利家妻)である芳春院(ほうしゅんいん、お松の方とも)が人質になることで疑いを晴らし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方するなどして領地を拡大。江戸時代初期には加賀国・能登国・越中国の三ヶ国に119万石を有する大名になりました(後に支藩に分地のため前記石高に)。
江戸時代中期、板橋に下屋敷を拝領した五代藩主前田綱紀は、全国から著名な学者や芸術家を招き、また新井白石に「天下の書府」と言わしめるほどの知識を収集しました。
このような前田家の文化的庇護のもとで、今日の「工芸美術王国」金沢の基礎は築かれたのです。

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