こうぶんしょ館電子展示室49号「都電から地下鉄へ」

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ページ番号1009258  更新日 2020年1月25日

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写真1
都電板橋区役所前停留所の光景(昭和40年)
写真2
都電最後の日中山道を走る(昭和41年5月)

こうぶんしょ館電子展示室49号

「都電から地下鉄へ」

公文書館では、年2回、板橋区役所本庁舎B1Fにて、板橋区のまちの移り変わりなどを写真、公文書館収蔵の資料を中心に紹介する「地下展示」というミニイベントを開催しています。
今回の電子展示室は、平成20年1月に開催の地下展示、「都電から地下鉄へ」の中から、区内を走った都電(市電)と地下鉄(都営三田線)に関する主な写真をピックアップし、時代の要請によって交代したこの2つの交通機関についてご紹介いたします。

区民が待ちに待った都電

昭和4年に巣鴨から下板橋(現在の板橋4丁目・東光寺の前あたり)まで延長・開通した都電(当時は「市電」)は、安全かつ安い運賃で、しかも大量に輸送できる区民の身近な足となりました。
昭和12年7月、日中戦争の火ぶたが切られ、板橋の志村、坂下、舟渡地区には都心部から続々と軍需工場が移転してきました。その数は170あまりで、従業員は約3万人でした。都電(市電)は下板橋で終点となっていたので、工員たちはバスを利用していましたが、朝夕のラッシュアワーには輸送力の半分の1万5000人がやっとでした

写真3
オートバイと都電(昭和29年)
写真4
志村一里塚前を走る都電(昭和29年)

工場街の志村方面へ都電延長

延長工事は昭和18年から開始、沿線の区民の勤労動員による突貫工事でした。各町会から15人ほど動員し、付近の神社の境内に集まって戦勝を祈願し、作業に取り掛かりました。昭和19年10月、志村坂上まで全線が開通し、交通地獄は大幅に解消されました。この間、昭和18年7月1日、東京市は都制を施行し、市電も「都電」となりました。

自動車に挟まれてノロノロノの都電

戦後も板橋を走った都電は、軍需産業から平和産業に切り替えた工場の工員たちを運びました。昭和30年代の1日の運転回数は、板橋十丁目・巣鴨間で350回、2万7000人余を運びました。しかし、自動車の交通量が増してくると、路面電車は邪魔者あつかいされるようになりました。平均時速12~13キロのスピードもさらに遅くなりました。

早くて安全な地下鉄へと交代

東京都では、昭和35年頃から中山道に沿って地下鉄を建設する構想が立ち上がり、都電廃止も具体化しました。昭和43年12月17日、車にはさまれて走る都電に替わって、「早くて安全」な都営地下鉄6号線(後に「三田線」と改称)が、志村-巣鴨間を往復するようになりました。昭和51年には、地下鉄の終点を西高島平まで延長して輸送力を増強し、今日に至っております

写真5
区役所庁舎より都電軌道を眺める(年未詳)
写真6
廃線直前の都電志村線 板橋本町付近で撮影
(昭和41年5月、青木氏寄贈写真)

写真7
都営地下鉄6号線巣鴨-志村間開通
(昭和43年12月27日)
写真8
旧都電車輌を利用した図書室で雑誌を読む
子ども達 板橋交通公園にて(年未詳)

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