こうぶんしょ館電子展示室40号「江戸の情報伝達村方文書」

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ページ番号1009275  更新日 2020年1月28日

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こうぶんしょ館電子展示室40号

「江戸の情報伝達 村方文書」

現代の日本は、ありとあらゆるところに電話、インターネットといった「情報の網」がはりめぐらされています。
小学生から高齢者まで、携帯電話、パソコンといった道具を活用することで、いつでも誰にでも連絡したり、多人数への通知をしたり、また、一人ひとりが自分の欲しい情報を瞬時に探し出すようなこともできるようになっています。
これに対し、今から約400年前に始まった江戸時代においては、主な情報伝達の手段といえば、もっぱら筆、墨、硯、紙をもちいて作成された文書(もんじょ)でした。
村々には文書という形態で、領主から発せられた命令、あるいは庶民から領主への上申の過程を記した村役人(名主・組頭・百姓代)逹がいました。彼らは村の運営に関わる様々な動きを、「村方文書」(地方(じかた)文書とも)と呼ばれる文書として後世のために書きつづけました。
村方文書とは、支配を受ける村側に伝来した史料で、領主からの命令を伝える触書や、領主へ提出する訴状等の「写し」や「控え」が残されたものです。
この村方文書には、村の土地台帳である検地帳をはじめ、村びとの諸権利を証明するための証文類が多く含まれており、大事に保存され、引き継がれてきました。
江戸時代は、文書による情報伝達が確立された時代だったといわれています。
これは、江戸時代にはいって社会秩序が安定したことにより、庶民の識字率が向上したため、領主は領民や領地の支配を、文書という情報伝達手段により、効率的に行えるようになったためではないでしょうか。板橋区内に残されている村方文書からは、当時の人々の暮らしぶりを今でも鮮やかに読みとることができます。
公文書館には、こうした村方文書の写しなどを撮影し紙焼きした資料がたくさん保管されています。
ぜひ一度、公文書館を訪れになって、江戸時代の「いたばし」に生きた人々の息吹を感じてみてはいかがでしょうか。

享保3年(1718)覚書『図説 板橋区史』より転載

この史料は、享保3年(1718)の徳丸本村(現、板橋区徳丸1丁目付近)の村高割合(田と畑の比率)を書いた覚書です。ここからは、徳丸本村とその田地が荒川端という立地にあり、水損・干損の被害を受けやすい土地であったことがうかがえます。

  • 村高・・・村の公定生産率を示すものであると同時に、年貢、諸役の賦課基準とされたもの。石高。ちなみに、この当時の徳丸本村の村高は1千石8斗9升7合(内、田方461石2升2合、畑方539石8斗7升5合)で、やや畑が多い村でした。
    「石」とは、主に穀物を量る体積の単位で、1石=180.39リットル、1石=10斗=100升=1000合。
写真1
享保3年(1718)覚書

丑御用留帳(うしごようどめちょう)『図説 板橋区史』より転載

この史料は、元治2年(1865)正月吉日に作成されたものです。表に大書されたタイトル「御用留帳(ごようどめちょう)」とは、廻状や触書などといった数ヶ村を巡回する通達文書を、村毎に書き留めておいた帳簿のことです。

  • 廻状・・・領主が村々へ年貢取り立てなどの用件を通達するための書状。各村の名主は確認次第、それに判を押して次の村へと渡し、最後の村(留り村)は発行者(代官所等)へと書状を戻すこととなっていた。回文、回章とも。
  • 触書・・・江戸時代の法令、法度(はっと)のことで、庶民に触れられた法令(狭義の触書)をはじめ、御達、書付など、すべての法令を包含する広義の法令のこと。

参考文献
『板橋区史資料編3近世』(板橋区、1996年)
『同通史編上巻』(板橋区、1998年)
『図説板橋区史』(板橋区、1992年)
『日本国語大辞典〔縮刷版〕全十巻』(小学館、1979~81年)

写真2
丑御用留帳(うしごようどめちょう)

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