時代を紡ぐ 「惜別の歌と板橋」

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ページ番号1004886  更新日 2020年1月25日

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召集令状(複製)と工員手帳・国民労務手帳

3月は卒業式シーズンです。送る方も送られる方も、万感の思いを胸に式に臨みますが、中央大学ではこのとき、「惜別の歌」を合唱します。

遠き別れに堪えかねて この高殿にのぼるかな
悲しむなかれわが友よ 旅の衣をととのえよ

詩は明治の文豪島崎藤村の「若菜集」の中におさめられた高楼の一節を引いたもので、中央大学予科学生であった藤江英輔氏が昭和20年1月に曲をつけました。歌われた場所は、板橋区加賀(東京第二陸軍造兵廠)から北区十条(東京第一陸軍造兵廠)に広がる軍需工場内です。
当時、人手不足を補うため多数の学徒生が動員されており、藤江氏もその一人でした。既に工場で働いていた熟練工は戦地に駆り出され、その穴埋めに中学生以上の男女が勤労学生として従事していたのですが、どれだけの人数が動員されたのかは今もって不明です。都立第九中学校(現、北園高校)の学生もいました。
同年2月には、召集令状が届いて工場から出征する仲間に向けてこの「惜別の歌」が歌われ、学生たちは万歳三唱で送られていきました。
藤江氏の回顧によれば、戦争末期の日本国内は物資が不足し、仲間に贈る記念品さえない時代で、せめて曲を作りはなむけにしたいと考えたそうです。なぜ、島崎藤村の詩の一節を使用したのか、これは工場内にいた東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)の女学生が愛誦していたからとされていますが、もう一つ考えられるのは、第九中学校初代校長常田宗七氏が島崎藤村の教え子であった縁で直筆の書額があり、第九中学生から島崎藤村のことが話題になっていたのかもしれません。
名曲「惜別の歌」が歌われて69年、板橋とも縁があるこの歌が作られた時代背景にも目を向ける機会になればと思います。

【学芸員 小西雅徳】
※平成26年3月22日発行「広報いたばし」掲載

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