時代を紡ぐ「板橋宿中宿脇本陣の近代」

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ページ番号1004908  更新日 2020年1月25日

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飯田家家屋間取り(明治21年)

江戸時代、参勤交代の際に大名などの宿泊施設となった本陣や脇本陣は、宿場における重要な施設として、その機能や宿場内での役割が明らかとなっています。しかし、明治3年(1870年)に本陣 脇本陣が廃止されて以降、その姿が語られることはあまりありません。
では、板橋宿の本陣や脇本陣はどのような「明治」を迎えたのでしょうか。その一端を明らかにする史料が、板橋宿中宿の名主で脇本陣を務めた飯田宇兵衛家に残されています(飯田侃家資料、板橋区登録有形文化財・有形民俗文化財)。ここから脇本陣飯田家家屋の「明治」の姿をのぞいてみましょう。
明治11年、現在の板橋区・豊島区・北区・荒川区・練馬区を範囲とする北豊島郡が誕生します。その際、北豊島郡役所が下板橋宿に設置されることとなり、飯田家の家屋の約半分(建坪75坪、7部屋)を借用し、開設しました。郡役所との契約によると、家賃は1か月4円17銭。敷地・建家の管理や修繕などの費用は飯田家が賄い、畳や障子の張り替え費用は郡役所が支払うことが取り決められています。
その後、同19年に郡役所は事務量の増大などのため、新築庁舎を建設し移転しますが、同21年からは東京区裁判所下板橋出張所(登記所)が飯田家を間借りし、開設されます。下板橋出張所との契約では1か月9円の家賃で、契約証には「表門は裁判所の構内である」「終始苦情などは述べない」などの文言が見られます。文言の通りとすれば、飯田家のかたは裏門から出入りするなどいろいろと生活に不便な点があったのかもしれません。なお、下板橋出張所は大正5年(1916年)まで飯田家の家屋を借用し業務を行っていました。
このように脇本陣飯田家の家屋は明治になっても公的施設として利用されていましたが、同時に家屋の部分的な解体や買い上げを郡役所へ願い出ている史料があります。そのことからは広大な家屋を維持するのが困難であった様子もうかがえます。
明治を迎え、本陣や脇本陣はその役割を終えるとともに、広大な施設の維持が困難となり、敷地の売却や縮小、あるいは建家を旅館や公的施設として転用する例が見られます。飯田家では建物の規模を縮小させながらも公的施設としての役割を担い続けました。現在、板橋宿の本陣・脇本陣は姿を消しましたが、飯田家の脇本陣は江戸・明治・大正時代とともに歩んだ、まさに板橋の歴史を物語る証人であったのです。
【文化財専門員 中村陽平】
※平成22年10月23日発行「広報いたばし」掲載

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