時代を紡ぐ 「板橋競馬場」事情~実は婦人に人気だった?~

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ページ番号1004887  更新日 2020年1月25日

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板橋競馬場勝馬投票券

明治の終わり頃、板橋区内に競馬場が設置・運営されていたことをご存知でしょうか。
この「板橋競馬場」は、東京市長であった尾崎行雄が会頭となり、東京ジョッケー倶楽部として明治40年(1907)12月に現在の豊島病院周辺に建設されました。競馬場の特徴は、石神井川に近い段丘地形を削って造成したため、トラックの中で高低差が8.5mもの傾斜があることでした。東京郊外の板橋には、まとまった土地があり、競馬場の適地と考えられたのでしょう。なお、客層については、明治41年3月30日の新聞記事に、物珍しさも手伝い板橋競馬場へと山高帽をかぶった紳士とともに婦人多数が駈けつけたとあります。春季レースにも婦人多数が観覧したとあり、これも競馬界の進歩の一つではないかとレポートしています。
では、なぜこの時代に競馬場ができたのでしょうか。理由は二つありました。一つは日露戦争による軍馬不足解消と馬体向上育成をはかること。次が税収目的で導入した勝馬投票券制度です。ちなみに、当時の馬券1枚は、大卒給料並みといわれています。
しかし、日露戦争の勝利に日本国中が浮かれ、賭博(競馬)に対する熱気が社会問題となると、明治41年7月発足の第2次桂太郎内閣は、問題鎮静化のため、10月に馬券禁止令を出しました。その結果、板橋競馬場でも12月に開催した秋季レース初日の入場切符はたった2枚しか売れず、東京ジョッケー倶楽部をはじめ、各地の競馬倶楽部は、収益が見込めず運営が困難となりました。なお、板橋競馬場でのレース自体も、馬場が粘土質のため降雨などによりコンディションが整わず、それに交通不便も加わり、数回の開催で幕を閉じています。
その後、明治43年4月に板橋・池上・川崎・目黒の4競馬会を併合し、目黒競馬場を存続した東京競馬倶楽部の設立許可願が提出され、板橋競馬場は廃止されました。そして広大な跡地には、大正2年(1913)に敷地の一部を買収した巣鴨の愛光舎牧場が移転してきました。馬から牛へ…、明治時代の終わりを彩った競馬場は牧場へと移り変わったのです。
郷土資料館では、今年の干支にちなんだ特別展「板橋と馬」を開催中です。板橋競馬場に関する資料も展示しています。

【学芸員 齋藤千秋】
※平成26年2月22日発行「広報いたばし」掲載
※当展示は平成26年3月23日までです。

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