加賀藩下屋敷の大砲製造

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ページ番号1004917  更新日 2020年1月25日

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平尾屋敷大砲鋳造図

平成20年、区と石川県金沢市は友好交流都市協定を結びました。金沢市との交流のきっかけは、江戸時代の中山道板橋宿に加賀藩下屋敷があったことです。現在でも地名の加賀や加賀公園・金沢小学校など、金沢ゆかりの名称が残り、区民に親しまれています。
板橋宿平尾宿に接して延べ21万坪という広大な屋敷を拝領した加賀藩(金沢藩ともいう)下屋敷は、御殿や広大な回遊式庭園を築き、また田畑や鴨池(かもいけ)、竹林などを有して、それは見事な景観であったといわれています。前田家5代藩主綱紀以降、歴代藩主や姫様などは、参勤交代の折の休憩や、狩猟・宴遊会・療養・調練などの視察に度々訪れていました。
しかし、幕末の嘉永6年(1853年)、浦賀沖にアメリカのペリー艦隊が来航してから事情が一変します。加賀藩としては江戸防備のため大砲を作る必要がありました。加賀藩では既に西洋式の大砲を作る技術を金沢で確立していましたが、江戸での体制をどうするかが懸案でした。
下屋敷は江戸郊外にあって近隣住人が少ないこと、敷地が広いこと、銅鉄の材料や江戸の職人を動員できること、動力として使える水車があることなどの利点から、藩は下屋敷を大砲製造所にすることを決定しました。ペリー来航から4か月後の嘉永6年10月のことです。大砲製造には、砲身の鋳造と砲身を刳る(えぐる)ため大型の錘状(すいじょう)工具で開削するという2段階の工程を要します。特に砲身を抉ることは手動ではできないため、水車の動力を利用しました。挿図は、水車動力のある石神井川の米搗き(こめつき)場に接して作られた鋳造(ちゅうぞう)場で、2基の甑(こしき)炉と大砲の鋳型(いがた)が見えています。鋳造技術は江戸在来の工法をそのまま踏襲していました。
下屋敷では、安政2年(1855年)夏までに台場に設置する青銅製西洋式18ポンド砲などの大砲を20門製造しました。13代藩主斉泰もそのでき栄えには満足していたそうです。
【学芸員 小西雅徳】
※平成22年2月13日発行「広報いたばし」掲載

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