時代を紡ぐ 「もう一つの徳丸原洋式調練」

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ページ番号1004895  更新日 2020年1月25日

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徳丸原洋式調練

今年は昭和47年1月に高島平団地への入居が開始されて40周年、同時に郷土資料館も開館40周年を迎えました。この節目にあたり、郷土資料館では高島平をテーマとした特別展「高島平蘭学事始」を開催しました。
この展示の狙いは二つあります。一つは高島平地域の活性化の方法として、江戸時代に流行した蘭学に注目し、その点からアピールできないだろうかという試み、もう一つは天保12年(1841年)5月9日、徳丸原(現在の高島平)で洋式調練を行った長崎の西洋砲術家・高島秋帆の行動とその影響の検証です。
高島平の地名は、高島秋帆の業績と名前に由来したものですが、時が経つと残念ながら、高島の存在や地名の由来も忘れられがちです。それを再度、「高島平蘭学事始」と銘打って、華々しく打ち出そうという意図なのですが・・・。
徳丸原での調練のとき、参加者100人は長崎を中心に佐賀、岩国、三河の田原、伊豆の韮山、水戸をはじめ、全国から馳(は)せ参じました。そして、高島の調練をひと目見ようと、幕府のいかめしい検分者以外に多数の大名関係者・蘭学者・砲術師・江戸市中のすき者たちや近在の村民が訪れ、その数は1000人とも3000人ともいわれています。その中には蘭学を志していた勝海舟などがいました。曲者(くせもの)で名高い海舟が高島を「具現の士」と評して、日本の近代化に果たした役割を高く評価したのは有名です。また、徳丸原での歴史的な瞬間に立ち会えなかった者たちのため、調練を再度実施したいとの熱い思いから、高島門弟53人が弘化2年(1845年)6月に「高島流砲術稽古業付」を行います。
その後、彼らは全国に拡散し、嘉永6年(1853年)6月のペリー艦隊来航後の社会混乱から明治維新に至るまでの政治体制の変化をものともせず、砲術・天文測量・医学化学の分野で活躍する有為な人材に育っていきます。高島は人物ネットワークを通じて人材を育てる術を持っていたのです。特別展では、徳丸原から新たな蘭学の志が生まれた、それを情報発信してみようと思います。
【学芸員 小西雅徳】
※平成24年10月20日発行「広報いたばし」掲載
※当展示は平成24年11月25日で終了いたしました。

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