板倉勝重~「志村」の領主~

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ページ番号1004910  更新日 2020年1月25日

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板倉勝重肖像画

戦国時代が終わると徳川家康が関東を支配します。拠点江戸城に近い板橋区域は、家康の直轄地や旗本領となっていきます。その中で、堀之内村(志村) 中台村の領主となったのが板倉勝重です。
「寛政重修諸家譜」(巻第八一)によれば、勝重の祖父頼重の代から三河国深溝松平氏に仕えたようです。
天文14年に好重の次男として生まれた勝重は、幼くして出家します。ところが好重が戦死、また跡を継いだ弟定重も戦死します。すると、家康が還俗(僧侶が俗人に戻ること)を命じ、板倉を継がせ、自らの家臣とします。
家康は関東の支配を開始すると、勝重は江戸の町のつかさ(町奉行)をつとめるとともに、堀之内村 中台村を知行地とします。また、その周辺の赤塚 徳丸 下練馬 土支田 小榑 西台 蓮沼 根葉など8000石余を代官として支配しています。さらに小田原の地奉行もつとめています。勝重は家康が新たな領国経営に着手したとき、拠点の江戸の治安を守り、中山道 東海道の要地を守る役目を担ったのです。
慶長8年に江戸幕府が開かれると、将軍家康は勝重を京都所司代に登用します。京都所司代とは、朝廷 公家への対応、畿内 西国の支配を統括するなど、老中に次ぐ重職とされるものです。勝重は元和6年に隠居するまでの17年間にわたり、その地位にあったのです。この間に京都周辺の数郡を与えられ、堀之内 中台村などを合わせ1万6600石余となり、大名となっています。
寛永元年4月29日に80歳で亡くなり、遺がいは萬燈山長圓寺(愛知県西尾市)に葬られています。
板倉氏は、数家に分かれますが、嫡流は何回かの領地替えを経て延享元年から備中松山藩(岡山県高梁市)に移り明治を迎えます。
板倉勝重の肖像画は、高梁市に所在する八重籬神社(勝重 重宗父子が祭神)が所蔵していたもので、現在は高梁市(高梁市歴史美術館)所蔵となっています。勝重の平服姿を描いており、頭巾につえを持つを持つという構図は儒者の肖像画によく見られます。
郷土資料館では3月21日祝日まで企画展「しむら」を行っています。勝重の肖像画や志村と板倉氏のかかわりについての展示があります。
【文化財専門員 小松寿治】
※平成23年2月19日発行「広報いたばし」掲載

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