時代を紡ぐ 「柳営連歌師の阪昌周と日曜寺」

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ページ番号1004891  更新日 2020年1月28日

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写真
阪昌周歯髪埋納の碑

萬代(ばんだい)の聲(こえ)やまな靍(つる)松の春 昌桂
亀の尾長き日影さす庭 御
玉鋪(たましき)間取の池水長閑(のどか)にて 昌周
明和4年(1767)正月11日、徳川家第10代将軍家治や老中らが臨席し、江戸城中で連歌会が開催されました。この年の御題は「木」で、最初が柳営連歌師匠の里村昌桂が詠んだ発句で、次が家治の句、三番目が柳営連歌師の阪昌周の句です。この時は、さらに10人の柳営連歌師が句を詠んでいます。
連歌とは、五七五の句を詠む俳句や五七五に続けて七七の句を詠む短歌に対し、複数の人が集まって五七五の句と七七の句を交互に繰り返して詠んでいき、百句をもって一つの作品とするものです。江戸時代には、連歌が将軍の教養とされ、毎年正月に江戸城で連歌会が開かれました。そこに出仕するのは柳営連歌師と呼ばれる人達で、里村紹巴の子孫(北家)や紹巴の師匠である里村昌休の子孫(南家)から多くが任じられましたが、その中に今回紹介する阪昌周がいます。
昌周は里村南家の6代昌迪の子として、享保元年(1716)に誕生しました。延享2年(1745)に阪家を起こして阪昌周と名乗り、宝暦9年(1759)には柳営連歌師を命ぜられて、以後安永10年(1781)まで正月の連歌会へ出仕するとともに、連歌書の執筆や弟子の指導に努め、天明4年(1784)11月5日に亡くなりました。深川本誓寺(江東区清澄三丁目)に葬られましたが、長男の昌文はそれとは別に昌周の歯と髪を大和町の日曜寺に埋葬し、昌周の履歴を刻んだ記念碑を建立したのです。現在、山門の脇にある緑泥片岩製の大きな石碑がそれで、平成24年度に区の登録文化財になりました。
このように昌文が父昌周の歯と髪を当寺に埋葬したのは、昌周が当寺の住職に帰依していたからです。開山の宥慶以来、当寺は田安徳川家の宗武(吉宗二男)の保護を受けていました。その宗武は国学や歌学を好み、文化サロンを主催していましたが、昌周はこのサロンを通じて当寺の住職と親交を結んでいたのです。この碑は、当時の文化人が幅広い人脈をもっていたことを物語る資料だったのです。

【文化財専門員 畠山聡】
※平成25年6月8日発行「広報いたばし」掲載

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