時代を紡ぐ 「茂呂遺跡発掘調査から60周年」

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ページ番号1004900  更新日 2020年1月25日

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写真
昭和26年7月撮影(明治大学博物館蔵)

茂呂遺跡の発見は、昭和26年(1951)3月、当時中学生であった瀧澤浩氏が、現在の小茂根五ノ17の切通し道路断面の関東ローム層(赤土)中から、黒曜石製の石器と礫の集中を見つけたことによります。
同年7月10日、東武東上線上板橋駅から南へ向う一団が川越街道を越え、栗原新道に入り御嶽神社(現上板橋体育館の向い)を右に見た後、石神井川にかかる栗原橋を渡った先の切り通しで歩みを止めました。そこが茂呂遺跡であり、彼らは、瀧澤氏より寄せられた情報から当遺跡の重要性を認めて発掘調査に臨む、明治大学考古学研究室と武蔵野郷土館の面々でした。発掘調査は、同日から19日まで行われ、関東ローム層中から、縄文時代より古い時代(旧石器時代)の生活の痕跡や道具類を確認しました。
写真はその調査時に、栗原橋を渡った地点から南方向を撮影したもので、中央の道が栗原新道、切通しの左上が調査地点です。
実はこの調査の2年前、群馬県岩宿遺跡の発掘調査が行われ、日本で初めて縄文時代より古い時代の文化の存在が明らかになりました。茂呂遺跡の発掘調査は、その文化の存在を確認した二例目の調査であり、またそれが北関東だけではなく、広い地域に展開していることを証明しました。また、この時に出土したナイフ形石器は、非常に特徴的な形態と作りであるところから、茂呂型ナイフ形石器と名付けられ、茂呂の名は全国に知れわたりました。
このように、茂呂遺跡は日本の考古学研究史上重要な遺跡として昭和42年に東京都の史跡に、また、出土遺物も平成11年に都の有形文化財に指定されています。
今年はその発掘調査から60年。教育委員会では10月22日に、茂呂遺跡の発掘調査の意義などを再確認するためのシンポジウムを開催し、その記念講演に、調査にも参加された大塚初重明治大学名誉教授をお招きします。ご期待ください。
【学芸員 秋山道生】
※平成23年8月20日発行「広報いたばし」掲載

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