江戸時代における板橋地域の医師 新井慶徳 板橋蘭学事始め

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ページ番号1004918  更新日 2020年1月25日

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上板橋宿の台宿(現在の南常盤台・東山町)には、文化14年(1817年)から安政5年(1858年)にかけて活躍した慶徳という人がいました。彼は当地にある長命寺のだんか総代を務める有力者であり、また医師であったことが「安養院文書」によって判明しています。では、慶徳とはどのような経歴を持った人なのか、検証していきたいと思います。
板橋宿では文政2年(1819年)から約6年間にわたり、医師を務めていた加藤曳尾庵という人がおり、日記風随筆「我衣」にその出来事を記しています。その中に、「当所の医景徳は外科も兼ねたれば」「治療は上板橋の景徳がかかりなれば」という記述が見られ、曳尾庵が板橋宿において外科を兼務していた上板橋の「景徳」という医師とともに治療にあたっていたことがわかります。また、同時期に作成された江戸における開業医の名簿である「医家人名録」にも、「本・外 板橋 荒井溪徳」という記載が見られます。「本」は本道(内科)、「外」は外科を意味しますが、この板橋を拠点とする内・外科医の荒井溪徳は、前述した「安養院文書」や「我衣」などに表れる医師、「慶徳」「景徳」と、その活動時期や場所、専門分野などが共通していることから、同一人物と考えられます。
ところで、京都で古医方派の内科とカスパル流派の外科を修学し、和漢蘭折衷の医方を実践した医師・華岡青洲は、京都で家塾春林軒を開き、塾に集った門人たちの名前を「華岡青洲先生春林軒門人帳」に記録しています。その文化12年(1815年)の記事には、「武州板橋 新井慶徳」の名が見られ、注目されます。つまりこの人物こそは、前述した「慶徳」本人であると考えられます。新井慶徳は、地域の有力者であり、留学費用や学費などが支払える経済力を持っており、江戸を離れて春林軒へと就学し、最新の外科法や麻酔法を修得したのでしょう。慶徳はその後、文化14年ころに上板橋宿へと戻り、板橋宿など周辺地域において本格的に医師としての活動を始めたものと考えられます。
このように、京都などで西洋医学を修学して帰郷した多くの門人たちは、各地に医療などの最新の知識と技術をもたらし、地域蘭学者とも称されます。19世紀前半の板橋地域における蘭学の受容は、この新井慶徳に代表されるように医療から始まったといえるでしょう。安政5年、下板橋村字根村(現在の双葉町辺り)の百姓・権十郎が口論の末に受けた傷を、この慶徳が縫合し、練馬村本道医・善蔵が膏薬と服薬を施したという報告書が残っています。これが今のところ、慶徳がかかわった最後の治療記事となっています。
【学芸員 吉田政博】
※平成22年3月20日発行「広報いたばし」掲載

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