「中世の赤塚にあった鰐口、約550年ぶりに板橋区に里帰り」

このページの情報をツイッターでツイートできます
このページの情報をフェイスブックでシェアできます
このページの情報をラインでシェアできます

ページ番号1004904  更新日 2020年1月25日

印刷大きな文字で印刷

写真
銅製応永廿七年赤塚郷石成村観音堂鰐口

今をさかのぼること約590年前にあたる応永27年(1420年)、一つの鰐口が鋳造され、赤塚郷の観音堂へと納められました。鰐口(わにぐち)とは神仏殿の前の軒先に吊されている青銅製具のことであり、参詣人が祈念する際にこれを打ち鳴らして使うものです。
さて、当鰐口は、その表面に「武州豊島郡赤塚郷石成村観音堂鰐口…応永廿七年庚子九月十八日…」などの陰刻がなされ、加えて裏面にも「武州新座郡中目満願寺観音堂鰐口…寛正七年丙戌正月暦日…」などの追刻が施されている点が大きな特色となっています。なお、表面に記された石成村(現在の成増・赤塚の一部)観音堂は、現在の上赤塚観音堂(赤塚五丁目二六番地)である可能性が高いものと考えられます。
また、表面の銘文が削られた上で、裏面に追刻されているということから見て、この鰐口は応永27年から寛正7年(1466年)の46年間に、何らかの理由で赤塚郷から新座郡(現:和光市)にある真言宗寺院満願寺へと移動したものと考えられます。
では、この鰐口はどのような経緯をへて新座郡へと移動したのでしょうか。想定されるのは応永年間から寛正年間にかけての赤塚郷をめぐる複雑な政治状況です。当時、赤塚郷は京都にある鹿王院の荘園となっていました。しかしながら、宝徳元年(1449年)には白子郷の領主庄善寿(しょうぜんじゅ)による赤塚郷への進攻が起き、また、康正2年(1456年)には下総国を追われた千葉氏が赤塚郷に入り、実行支配を展開するなど、大変混乱した状況となっていました。そしてその様な状況の中で、この鰐口も赤塚郷から新座郡へと移動したのです。
戦国時代、鰐口は梵鐘(ぼんしょう)や太鼓などとともに戦場における合図のための鳴物として転用され、また戦利品として持ち出されました。この鰐口も日本各地において確認される、元の場所から持ち去られるという運命をたどった数多くの鰐口のうちの一つといえるでしょう。
その後、この鰐口はいつの頃からか新座郡からも流出してしまいました。近代以降になると杉浦丘園、堀口蘇山などの有名なコレクターや研究者の手にわたっていますが、昨年、ついに赤塚の地にある区立郷土資料館が購入し、収蔵することとなりました。
赤塚の地を出てから約550年を経た今、ようやく故郷赤塚に帰ることができたのです。
【学芸員 吉田政博】
※平成24年3月24日発行「広報いたばし」掲載

より良いウェブサイトにするために、ページのご感想をお聞かせください。

このページの情報は役に立ちましたか?
このページは見つけやすかったですか?

このページに関するお問い合わせ

教育委員会事務局 生涯学習課
〒173-8501 東京都板橋区板橋二丁目66番1号
電話:03-3579-2633 ファクス:03-3579-2635
教育委員会事務局 生涯学習課へのお問い合わせや相談は専用フォームをご利用ください。