2024年11月9日 レオ・レオーニと仲間たち展開幕 アニー・レオーニさん講演会
11月9日(土曜日)、「レオ・レオーニと仲間たち展」が開幕しました。朝から大勢の方々にお越しいただきました。
土曜日とあって、絵本コーナーではレオーニの絵本を楽しむご家族も多く見られました。
『スイミー』『フレデリック』といった絵本でよく知られるレオ・レオーニは、オランダで生まれ、芸術的に恵まれた環境で成長しました。イタリアとアメリカでデザイナー、アートディレクターとして活躍します。一方で若い頃には画家を志し、後半生は絵画制作に専念しながら、絵本の制作も始め、幅広い分野にまたがる多数の作品を残しました。
当館では1996年に、レオ・レオーニ氏の存命中に日本で初めての「レオ・レオーニ展」を開催しました。2020年にはご遺族の協力のもと、未公開作品もふくめた「だれも知らないレオ・レオーニ展」を行い、翌2021年には72件もの作品の寄贈を受けました。そして今回、レオと影響関係にあったアーティストをあわせて紹介することにより、20世紀の文化史の流れの中でレオの仕事を検証することを試みます。
本展の開幕にあわせ、レオの令孫であるアニー・レオーニ氏が、ご夫婦でアメリカからお越しくださいました。アニーさんは本展開催にあたり、貴重な作品のご出品に応じてくださり、また度重なる調査にもご対応いただき、多大なご協力をくださいました。今回で3回目の来日となります。
初日の11月9日には、アニーさんによる特別講演会を開催しました。司会進行は館長の松岡希代子が務め、通訳は本展の共同企画者である森泉文美氏が務めてくださいました。ふたりは当館の3度のレオ・レオーニ展をすべて一緒に企画してきました。アニーさんは、レオとの思い出や、レオの作品を伝えていくご自身のお仕事についてお話くださいました。
前半は、子どものころの祖父レオと祖母ノーラと過ごした日々を、具体的に語ってくださいました。アニーさんが生まれたとき、レオもノーラもまだ40代半ばという若さでした。当時ニューヨークに住んでいたアニーさんは、週末になると電車で祖父母の元に遊びに行ったそうです。1961年にレオとノーラがイタリアに移住すると、アニーさんは夏休みに祖父母の住むリグーリア州のサンベルナルドを訪れました。8歳のときにはひとりで飛行機に乗ってイタリアまで行ったこともあったそうです。アニーさんが語る祖父母との夏の1日の様子を聞いていると、当時の孫と祖父母の楽しげな情景が目に浮かびます。音楽を愛したレオはさまざまな楽器を演奏し、ときにはアニーさんの手拍子でフラメンコギターも弾いていました。
1969年にはトスカーナの山中に居を移したレオとノーラは、後に冬になるとニューヨークで過ごすようになります。アニーさんはご自身の家族とともにレオたちのアパートの上階に住んだため、子どもたちは曾祖父母とも多くの時間を過ごすことができました。そして、アニーさんの子どもたちが学校へ行っている間に、アニーさんはレオのペーパーワークを手伝うようになります。エージェントをつけていなかったレオは、高齢になりパーキンソン病も患っていたことから、助けが必要になったのです。
アニーさんは1999年5月、ニューヨークからトスカーナに帰るレオとノーラを空港で見送り、その年の10月にレオはトスカーナで亡くなりました。
レオの亡き後、レオの絵本の仕事についてちゃんと知っているのはアニーさんだけでした。それ以来アニーさんはレオの作品を守り、後世に伝えていくために懸命に活動を続けてきました。講演会の後半は、アニーさんの現在のお仕事についてお話くださいました。
レオが亡くなって25年になりますが、レオの絵本は忘れられることなく、むしろより多くの人から注目されるようになりました。アニーさんはその理由を二つ挙げています。ひとつはレオの絵本が人間の抱えるさまざまな問題を表現していること、もうひとつはレオの絵本が現在はより多くの国や言語で出版されていることです。この二つ目の理由は、まさにアニーさんの尽力によるものでしょう。
アニーさんは、レオの作品にかかわるありとあらゆる業務を一人でこなしています。絵本の著作権の管理、原画や作品の管理、絵本以外の作品のこと、展覧会などへの協力......。しかし、エージェントや出版社ではなく、自分自身の生活・仕事をしている人が家族の残した作品を守り生かしてゆく仕事をするのは、とても大変なことでした。どのように進めていけばいいのか教えてくれる人も学校もなかったので、アニーさんはすべて自分でやり方を見つけ、築き上げてきたと言います。いまでは、そのような立場にある人たちがほかにもたくさんいることに気づき、自分の方法をシェアしたり、情報交換をしたいとも語っていました。
このような仕事をするなかで、アニーさんご自身も、レオの仕事について学び続けていると言います。アニーさんはあるとき、絵本『あおくんときいろちゃん』と、同時期のブリュッセル万博のパビリオンに展示された写真との関連性に気づき、アメリカの雑誌に寄稿しました。さらに記事の読者から、その写真が自分の父親が撮影したものであるという連絡を受け、撮影日や撮影場所も特定することができました。(これについては本展でもご紹介しています)
この写真はレオ・スタシンというアメリカの写真家によるもので、おそらくレオは雑誌の仕事を通して彼と知り合ったのでしょう。人を喜ばせることが好きだったレオには、本当にたくさんの友人がいたそうです。そのなかには著名なデザイナーやアーティストも多く、アニーさんは何人もの名前を挙げてくださいました。
最後にアニーさんは松岡からのいくつかの質問にも答えてくださいました。今後の抱負をたずねられたアニーさんは、いまでも絵本とデザインの世界は分けて考えられているところがあるけれど、今後レオの絵本の仕事がデザインの世界で評価され、またデザインの仕事が絵本の世界で評価されるようになってほしいと語っていました。アニーさんのお仕事があればそれが実現するのは遠い未来ではないでしょう、と松岡が述べて講演会は締めくくりとなりました。
レオの絵本は多くの人たちに知られていますが、アニーさんのお話を通して、新たなレオの一面を教えていただき、また作家の遺した仕事を引き継ぐ遺族の活動についてもお聞きできました。本展ではアニーさんのお話に挙げられたアーティストやエピソードについても触れています。展覧会は2025年1月13日(月曜日・祝日)まで。ぜひこの機会にレオの作品とともに「仲間たち」との交流についてもご覧ください。