2024年11月30日 松岡希代子講演会

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ページ番号4001925  更新日 2024年12月13日

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11月30日、開催中の「レオ・レオーニと仲間たち」の企画者である、当館館長の松岡希代子による講演会「3 回のレオーニ展から分かったこと」を開催しました。
本展は、1996年の「レオ・レオーニ展」、2020年の「だれも知らないレオ・レオーニ展」につづく、当館で開催する3回目のレオーニ展です。いずれも松岡が企画したものであり、本人もまさか一人の作家について3回も展覧会ができるとは思わなかったと振り返ります。1996年の時は作家が存命中であり、作家と一緒に展覧会を作り上げました。1999年にレオーニが逝去した後、フィレンツェとニューヨークの倉庫を調査する機会に恵まれ、作家が公開していなかったと思われるものを大量に発見することになりました。これらの、それまでだれも知らなかった作品を展示したのが2020年の展覧会です。1回目、2回目の展覧会ではレオーニのみに焦点があたっていましたが、現在開催中の展覧会ではレオーニと関係のある作家もあわせて紹介することで、レオーニを20世紀の文化史のなかで捉えようと試みています。

これまでの展覧会を簡単に振り返ったところで、次はレオーニの生涯について、松岡の視点から話していきます。
1910年、アムステルダムに生まれたレオーニは、両親の仕事もあり、幼い頃からアメリカ、イタリアに移住しています。このように、移動することにこだわらない家庭のなかで育ったこともあり、レオーニ自身、後半生はアメリカとイタリアを行き来する生活を過ごしています。また、レオーニは早くから絵描きになることを決めていましたが、大学では経済学を修めており、正式な美術教育は受けていません。これは、公認会計士だった父のプレッシャーもあったのではないかと、松岡は話します。
数年ほど未来派の活動に参加した後は、ミラノでデザイナーとして活躍しはじめます。しかしながら、差別的な人種法が出されたことにより、1939年に渡米しました。アメリカではアートディレクターとして成功しますが、1959年にはリタイヤを決め、絵本と絵画制作を中心とした後半生を送ることとなります。なお、日本には1954年にデパートでの個展のため初来日しますが、詳細はよくわからないとのことでした。1980年に、今年亡くなられた工作舎の松岡正剛氏と対談し、『間の本』という対談集が出されました。それをきっかけに翌年にも来日しています。
1990年、イタリアのボローニャ近代美術館で開催された回顧展で、レオーニとしては初めて、大文字のArt(絵画や彫刻などのファインアート)と、小文字のart(グラフィックデザインなどの応用芸術)とを一緒に展示しました。今回の調査のなかで、令孫のアニーさんより、レオがこの展覧会に対しての不安を語っていたということがわかったそうです。レオーニは、グラフィックなどは下に見られてしまうのではないかと恐れから、絵画や彫刻と、デザインとでは交友関係も含めて混じらないようにしていたといいます。しかしながら、90年の展示は多くの人に好意的に受け入れられました。そのことで、絵画やデザイン、絵本といったレオーニの仕事を網羅的に取り上げた、1996年の展覧会の開催につながったといいます。この96年の展示についても、レオーニは多くの人に認められたと喜んでいたということも、今回の展覧会の調査で知ったということでした。

次に松岡は、「レオに影響を与えた8人」というテーマで話していきました。
まず、レオーニの幼少期に関わった人物を紹介しました。コレクターであり、レオーニの家にシャガールの絵を預けた大叔父ヴィレム・ベフィー。絵の描き方を教え、黒いテーブルをプレゼントした叔父ピーテル。シュルレアリスムのコレクションを持つ叔父ルネ。この三人の存在から、レオーニが文化的に大変恵まれた環境に育ったことが見えてくるといいます。ヨーロッパでは、レオーニが未来派に参加するきっかけとなった友人のクロード・マルタンや、建築や美術の評論家であり、デザイナーのエドアルド・ペルシコと出会いました。レオーニはペルシコに気に入られ、グラフィックデザインの世界へと入っていくことになります。
渡米後、アートディレクターとしての仕事のなかで、本展でもとりあげているベン・シャーンと出会います。レオーニは、妻ノーラの父の影響もあり、自ら共産主義者を自覚し、政治的な活動も積極的に行っていました。そうしたレオーニの姿勢は、同じくアートの力で社会変革を行おうとするシャーンの姿勢と通ずるところがあったのではと、松岡は話します。レオーニのアトリエには美術品が多くあり、調査中にも様々なものがでてきました。そうしたものから交流関係が見えてきて、展示につながったそうです。本展で展示されている「仲間たち」の作品は、多くはレオーニが所有していたものになります。また、アーティストとして憧れていたアレクサンダー・カルダー。スーツやネクタイなど、比較的きっちりとした恰好することの多かったレオーニに対し、ぼさぼさの髪に真っ赤なシャツを纏う、ボヘミアンなカルダーな姿に、レオーニはアーティストとしての憧れを見ていたようです。最後に、絵本編集者のファビオ・コーエンを取り上げました。イタリアからやってきたレオーニの周りにはイタリア系の人が多く、コーエンもその一人でした。『あおくんときいろちゃん』を出した編集者であり、レオーニが絵本の世界に入るきっかけとなったひとです。松岡は、この8人がレオーニにとって、大きな影響を与えた人たちであるといいます。

レオーニについて語るとき、松岡はレオーニの自伝である『Between Worlds』からその多くを参照しています。97年に出版された本書は口述筆記で制作されたもので、松岡にとってバイブルともいえるものだといいます。この本をしつこく見ていくなかで、間違いを見つけたり、あるいは大切な事柄のはずなのに書いていないということが見えてきたそうです。
例えば、ミラノ時代に描かれたと思われるユーモア漫画や政治風刺の絵については、生前まったく触れられていません。特に後者は、ヒットラーやムッソリーニなどを直接的に描いているもので、発表もされていないと思われます。会社に勤め、働いているなかで、こうしたものはなかなか出せなかったのではと松岡は指摘します。こうしたものから、レオーニの考え方や秘めたメッセージが感じられるようになると話しました。
また、ブルーノ・ムナーリによる『フォークの絵本』は、ムナーリとレオーニの関係を示すもののひとつです。その序文には、この絵本が生まれるきっかけが書かれています。アメリカにいたレオーニから、雑誌のイタリア特集号への寄稿を頼まれたムナーリは、パスタを食べるフォークにイタリア的なジェスチャーをさせた絵を送りました。それをレオーニがレイアウトし、雑誌に掲載されました。そのことに気づいた1997年頃、松岡と共同企画者である森泉文美さんはムナーリに会っていたこともあり、本展はムナーリとの二人展にすることも考えていたといいます。その後、フィレンツェにある倉庫からは雑誌の原稿が、ニューヨークの調査ではムナーリからの手紙がたくさん出てきました。これらも、今回の展示で紹介されています。

これまで松岡は、森泉さんと一緒に、レオーニと関わるさまざまな場所に訪れてきました。近年それが「聖地巡礼」であったということに気が付きます。こうした場所をめぐることで、レオーニの未来派時代の油彩画の発見などにもつながったそうです。
こうした長年の調査のなかで、2020年にはアニーさんから作品寄贈の話があり、結果的に2021年に72件のレオーニ作品の寄贈を受けました。そんなプレゼントがあるなんて! と、大変喜んだということを話しました。
ボローニャ国際絵本原画展で絵本の仕事はしていたものの、1996年のレオーニ展が、絵本作家の全貌を見せるような展覧会を手掛けたきっかけとなったと、松岡は話します。これまでに瀬川康男展や安野光雅展、近年では駒形克己展やポール・コックス展、三浦太郎展など、多くの絵本関連の展覧会を手掛けてきました。そして現在、多くの美術館でも絵本に関する展覧会が増えてきたことに言及しながら、まだまだやれることはたくさんあるとして、絵本について、特に作家本人についてもっと研究してほしいと述べました。

松岡にとって、これまでの3回のレオ・レオーニ展は、多くの調査を経て、レオーニをさまざまな角度から理解するものであったといえます。調査ほど楽しいものはない、とも語っていましたが、小さな発見の積み重ねから人間像が浮かび上がっていき、それが今回の展示につながっていったといいます。今回の講演会は、30年近くにわたって、松岡がレオーニとどう向かいあってきたか、どう展覧会をつくってきたかを垣間見るものだったのではと思います。ご参加いただいた皆様、本当にありがとうございました!

本イベントで、「レオ・レオーニと仲間たち」の関連イベントはすべて終了いたしました。展覧会は、1月13日(月曜日・祝日)まで続きます。また、これまでの研究の軌跡や生前のレオとの話などについては、本展の展覧会カタログにも掲載されています。ご興味のある方は、そちらもぜひご覧いただけますと幸いです。


松岡 講演中の様子

松岡 講演中の様子