2024年11月17日 シンポジウム「未来派とレオーニ」

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ページ番号4001920  更新日 2024年11月22日

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11月17日(日曜日)には、「レオ・レオーニと仲間たち」展を記念したシンポジウム「未来派とレオーニ」を開催しました。オランダで生まれ育ったレオですが、高校生から20代までの青年期をおもにイタリアですごしました。当時のイタリアでは未来派という前衛美術運動が盛んに繰り広げられ、また、出版広告業の発展によりグラフィックデザインという分野が生まれてくる時期でもありました。レオは、いずれにも関わり、その体験はのちのレオに大きな影響を及ぼしたはずです。一方で、1939年にアメリカに亡命したこともあり、1920年代末から1930年代のレオの活動の軌跡は記録も少なく、謎に包まれた部分もあります。本展は、レオの活動を20世紀文化史の大きな流れの中から改めて見直すというコンセプトのもとに企画されたものです。今回は未来派をひとつのキーワードにして、3名の専門家にお越しいただき、同時代の状況のなかから多角的にレオの活動を考えるシンポジウムを開催することになりました。プログラムと講師は以下の通りです。

発表 1 「レオ・レオーニの自己形成とイタリア未来派」太田岳人氏(千葉大学非常勤講師)
発表 2 「似ている?違う?同じ時代を生きたレオーニとムナーリ」藤田寿伸氏(東京成徳大学子ども学部准教授)
発表 3 「グラフィックデザイナーとしてのレオーニ」室賀清徳氏(編集者、デザイン評論)
ディスカッション モデレーター:森泉文美氏(本展共同企画者)、松岡希代子(板橋区立美術館長)

最初の発表では、イタリア未来派の研究をされている太田さんに、レオが画家やデザイナーとして活動を始めた時期と地域に注目しながら、未来派の時期による変遷、地域的な広がり、各地で活躍したアーティストなどについてお話いただきました。最初にレオの前半生のバイオグラフィーに言及され、参加した未来派の展覧会についても整理してくださいました。そして、レオが参加する以前の1910年代から始まる未来派の活動から、年代と地域を分けて分かりやすく説明してくださいました。バッラ、セヴェリーニ、ルッソロ、バッラ、デペーロなど、代表的なアーティストとともに、未来派の中心的人物であるマリネッティについては、とくにその特徴的な言動を具体的にお話いただいたので、つかみどころのない「未来派」というものが、当時の若いアーティストたちにとってどのようなものであったのか想像することができました。なかでもレオと近い関係にあったトリノやジェノヴァ周辺のアーティストたちについても丁寧にご紹介くださいました。フィリア、ガウデンツィ、そしてアルビソーラのトゥッリオ・マッツォッティらは、日本ではあまり知られていませんが、レオと直接の交流があったと思われます。レオが未来派と関わりを持ったのは1930年代初頭の数年だけですが、多くのアーティストとの知遇を得たのでしょう。1930年代半ば以降、レオは未来派そのものからは離れていきましたが、工業の中心地であり出版や広告業も盛んだったミラノに居を移したことで、未来派の活動で培った人脈がデザインやイラストの仕事をするうえで役に立ち、それがアメリカでの飛躍を準備するものになったのだろうと太田さんはまとめられました。地図や写真をふんだんに用いた大変分かりやすいスライドの最後は絵本『マシューのゆめ』の一場面。マシューの絵に、ちょっと未来派的な雰囲気が感じられるのではないかとおっしゃっていました。

続く藤田さんによるご発表は、ご自身が長年研究されているムナーリと今回のテーマであるレオ、同時代に生きたふたりについてお話いただきました。ムナーリはミラノを拠点にグラフィックやプロダクトデザインをしながら、絵本をつくり、子どもの造形教育にも大きな足跡を残していますが、藤田さんも同地でプロダクトデザインのお仕事をされ、また帰国後は幼児教育の実践にかかわり、現在はそれらの経験をふまえて大学でデザインや教育について研究しながら後進の指導にあたっています。藤田さんは、ムナーリとレオを、様々な観点から比較し、共通点や相違点を見いだし、そこからふたりの特徴を指摘されました。アムステルダム中心地の裕福な家庭で芸術的に恵まれた環境で、進歩的な教育を受けたレオ。一方、ミラノの庶民階級出身のムナーリは、少年時代をすごした自然豊かな土地で多くのインスピレーションを受けました。対照的なようですが、ともに独学でデザインやアートの道に入り、イタリア未来派に参加し、ミラノでグラフィックデザインを始め、アートや絵本も手がけるという共通点も多く見られます。藤田さんは、ふたりのインタビューや自伝などを多数引用しながら、「戦争と社会意識」「芸術とデザイン」「カルダーをめぐって」「絵本」といったトピックを挙げて、ムナーリとレオを比較分析されました。実は、本展の準備段階では、レオとムナーリのふたりを取り上げるというアイデアがあったのですが、展覧会としてまとめるにあたって、より広い交流に焦点をあてることになりました。藤田さんの発表は、まさに本展が生まれるきっかけともつながっているという点でも、とても興味深いものでした。

室賀さんのご発表は、20世紀前半から半ばのヨーロッパとアメリカにおけるグラフィックデザインや広告業界といった大変広い視野をもって、未来派時代から始まるレオのグラフィックデザイナーとしての側面を検証するものでした。そもそも、「グラフィックデザイン」という言葉はいつから一般的になったのか、そして両大戦間の文化や美術はどのようなものであったのか、といったことからお話いただきました。室賀さんの明快な説明から、不安定ながらも新しいものを求める当時の気風がありありと感じられ、青年レオが過ごしたヨーロッパの状況や、彼らから見たアメリカがどのような世界であったのか想像をめぐらせることができました。その後、レオは亡命先のアメリカでも広告業界に身を置きます。経済的に豊かなアメリカでは広告も盛んで、分業制の進んだ業界のなかでは各担当の仕事をまとめるアートディレクターの役割が必要となり、また、ヨーロッパから亡命したデザイナーたちも活動していました。室賀さんはさまざまなデザイナーたちを例に挙げ、写真やタイポグラフィを使ったインパクトのある当時の新しいデザインを解説してくださった一方で、レオのデザインワークについては「絵画的」「エレガント」といった言葉を使われ、ヨーロッパ的なレオのこうしたデザインはアメリカで活動するにあたって強みとなったのではないかと述べました。「フォーチュン」誌の歴代アートディレクターの誌面や、「ページのためのデザイン」と他のデザインマニュアルなど、レオと同時代の他のデザイナーの仕事を比較して分かりやすく説明してくださったので、レオのデザインの特徴がとても分かりやすく伝わってきました。そして発表の最後には、色と形という基本的な要素によってレオが自身の物語を描きだした絵本『あおくんときいろちゃん』について言及されました。

いずれのご発表も、3人のみなさんの専門や経験をもとに、時代性や地域性の中からレオを検証していただき、展覧会では触れることのできなかったさまざまな視点に気づかされ、40分とは思えないほど多くのことを学ばせていただきました。

休憩をはさんだ後半はディスカッションの時間となりました。まず本展共同企画者の森泉さんが、3人のみなさんの発表について感想を述べ、その後、当館館長の松岡や森泉さんがみなさんに質問をしていくなかで、さらに話が深まっていく場面もありました。室賀さんは、レオがアメリカのデザイン界で活躍していた頃はマニュアル化・フォーマット化される直前の時期であったとして、レオが手掛けたデザイン見本帳「ページのためのデザイン」について指摘され、森泉さんもこの作品について熱のこもった解説を加えてくださいました。また、森泉さんはレオの未来派時代のもっとも大事な友人はフィリアだったのではないかと述べ、それに対して太田さんはフィリアの作品や経歴について詳しくお話くださいました。また、藤田さんがムナーリの「機械主義宣言」を取り上げて人間が機械の奴隷になってはいけないというムナーリの考えを紹介されると、森泉さんはレオの絵本「せかいいちおおきなうち」との共通点を見出しておられました。

3人の発表者の方々と森泉さんのおかげで、大変濃く充実したシンポジウムとなりました。3時間を超える長丁場となりましたが、参加者の皆さんも熱心に耳を傾けておられました。みなさん、ありがとうございました。

シンポジウム1

シンポジウム2

シンポジウム3

シンポジウム4

シンポジウム5